No.1 土地神話は、本当に崩壊したのか

 

 不動産は、所有から利用へ。本当にそう変わりつつあるのだろうか

 シビアな経営判断の求められる企業においては、従前のような、地価上昇期待に基づく土地保有は、もう何の意味も持たないことは十分理解されているはずである。従って、利回りの悪い不動産は手放され、より収益率の良い不動産が買われる。その結果として、多くの商業地において大幅な地価下落が起こると共に、良い所と悪い所の明確な二極化現象が進行している。合理的な投資行動、つまりシビアな選択の結果と言えよう。

 一方、住宅地はどうか。
 確かに住宅地も継続的な地価下落が進行してはいる。しかし、利回りという点で見た場合、未だに不合理な価格、言いかえれば高止まっている地域が多く見られるのではないか。

 鑑定評価の三手法のひとつである収益還元法について、一般に、住宅地には当該手法はなじまないとする見解が多い。筆者も、その意見に基本的には反対はしない。鑑定評価が、市場で起こっていることの代行あるいは代弁であるのなら、そこに良い悪いの価値判断を差し挟む余地などなく、ただ現実を直視するという冷徹さだけが必要である。現実の市場において、住宅地が、収益価格を無視して売買されているのであれば、やはり、その評価において、収益還元法は有効ではないと言えるだろう。

 しかし、そこではっきりさせておかなければならないことが一つある。

 現実に起こっているそのことと、それがあるべき姿であるのか、そして今後も持続しうることなのか、ということとは、まるで次元の違う話であるということ。

 住宅地の評価には収益還元法は有効ではないという理由で、その地価を高止まらせている、あるいは、収益還元法という“手間”を鑑定士は回避している、などという批判を目にする事がある。(例えば、増田悦佐『地価暴落はこれからが本番だ。』KKベストセラーズ,2000年)

 このような批判は、原因と結果を逆に捉えたお門違いのバッシングであって、正直なところ、反論にも値しないのであるが、そう思いつつも、ここで一言だけ言っておこう。我々鑑定士の最も基本的な仕事は、良いとか悪いとかの価値判断を差し挟まずに、ただ、現実を直視することであり、現実を説明できない手法は、残念ながら(現状のところ)役に立たないのだと。

 もちろん、それだけが仕事だと言うつもりはない。私がこのサイトで展開しようとしているのは、より良い価値判断とは何か、ということを常に模索することこそ、我々に求められている重要な役割ではないかという自問自答である。

 利回り面から見た場合、確かに価格が高止まっている土地がある。それは、経済効率性という観点から言えば、良いこととは言えないだろう。価格評価という作業は、結局、金銭で測定できる価値しか扱うことが出来ないから、収益価格に比べて著しく高い金額で取引が行われることに対し、良い悪いの価値判断をいれるとすれば、やはり、合理的な投資ではありませんよと申し上げることになる。

 それでは、金銭に見積もることの出来ない価値の扱いはどうするのか。
 住宅地を高く購入する人は、実は、自身の価値観に基づく効用(精神的な満足度なども含めた)を、正しく資本還元してはじき出した「独自の収益価格」で購入を決断しているのだ。それが、貨幣価値的に見ればナンセンスであっても、本人は満足している。しかしながら、事実、金銭的には損をしているのであるから、必ず、その歪みがどこかに出てくるのである。自分の人生と引き替えのような住宅ローン。そしてその返済が困難になった時、仕方なく売却してもローンを払いきれず、最悪のケースには自己破産。現実にはそうならなくとも、多くの人がそのような危険を抱えつつ生活していることの経済全体への影響度は、計り知れないであろう。しかも、公的資金を元手とした融資、住宅減税などによって、ご丁寧に政府がそれを下支え、あるいは助長している。
(ステップ償還、ゆとり返済などの制度は、本来買えるはずのない層の人たちにまで、「お金は用立てするから、この際、思いきって買いなさい」と、まるで無茶なローンを組ませて毛皮や宝飾品を買わせるようなことを国がやっていたのだ!)

 このような状況を、朝日新聞記者の山下努氏は、『宅地持ち合い説』なる言葉で説明した。(『月刊不動産鑑定』住宅新報社、2000年5月号、2-3ページ参照)
 住宅購入者のはじき出した「独自の収益価格」の基となる自身の効用と、市場家賃との差額は本来無駄な支出であるのに、国民と政府が一体となって、その無駄を守っている。そして、その結果としての住宅地価の高止まり。

 これは、未だに住宅地において土地神話が生き続けている証ではないのか。

 利用価値に見合わない価格、つまり、市場家賃に見合わないほど高い地価で購入することは、明らかに不合理であって、経済理論から言えば、そのような不合理は是正されて然るべきである。

 筆者は、住宅地も収益価格で判断されるようになるべきであると考えている。それが、最も合理的と思われるからだ。

 しかし、人は、合理性だけで生きているわけではない。ブランドグッズ、化粧品、宝石・・・。もし、それらの収益価格を算出することが出来たとしたら、それらは明らかに高すぎる金額で取引されているではないか。

 職業柄、筆者は、よく人から、「家は今、買い時でしょうか?」「マンションは、もう底値でしょうか?」「どんな物件を買えば得でしょうか?」などという質問を受けることがある。そのような時、筆者はだいたい、次のように答えることにしている。
 「損か得か、というレベルで考えるのなら、持家を持とうなんて考え方はやめたほうがいい。もうそんな時代は終わったのだから。損得ではなく、一国一城の主になることがあなたの夢ならば、どうぞ買える時にお買いなさい。」
 まあ、これはかなり辛口だが、まずはそういうシビアな見方をした上で、それから少しでも賢い方法を模索すべきだからだ。

 今のところ、多くの日本人の土地に対する価値観を観察する限り、土地は、未だにブランド品のように捉えられているのではないか。
 「夢のマイホーム」などという言葉を耳にするたび、筆者はそう思えてならない。そしてそれが良いことか、悪いことかと問われれば、「決して好ましいことではないと思う」と答えるだろう。

 だが、夢を見ている人に対しては、不合理とか無駄という言葉は、おそらく通用しない。

 日本人は、この先本当に、その夢から覚めるのだろうか。

2000年5月5日


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