No.2 持家信仰の正体

 

 当コラムNo.1において、「夢を見ている人には、不合理とか無駄という言葉は、おそらく通用しない」と書いた。

 誤解を生じないように、ここでその続きを書いておこう。

 筆者の個人的な価値観から言えば、不合理な夢を見ること自体、悪いことだとは思わない。むしろ、そういうことが出来る人のほうが幸せだと思う。だからと言って、それを奨励するつもりもない。価値観は人それぞれであるし、良い、悪いの判断を下すのは、それこそ各人が行えば良いことである。個性化、個別化の時代とは、そういうことだ。むしろ、そういう種々の価値観を容認し合う社会こそ、望ましいものだと思う。

 収益、収益と、世間はかまびすしいが、収益と言うから、何か金銭価値のないものはすべて悪のように思われがちであるが、大切なのは、収益と言うよりも、効用である。

 例えば、他人にとってはガラクタのようなものを集める収集家が存在するのは、とりもなおさず社会が豊かで平和な証であろう。

 不動産を、収益価格で評価しましょうということは、そういう個々人の価値観をしっかり持った上で、なおかつ冷静に判断を下そうという一連の時代の流れのひとこまのような気がする。もちろん、不動産の効用のうち、金銭価値で測定できるものは「収益」だけであるから、それはむしろ市場(=個人の行動の総体)が決めることなのであるが、冷静に金銭価値だけで判断する人は、収益価格で買えば良いし、金銭価値以上の精神的効用までも考慮する人は、もっと高い金額で買っても良い。

 そして、日本人全員が、こぞって「住宅地の価値は、収益性だけじゃないんだ」ということならば、収益性以上の地価が形成されてしかるべきである。

 ただ、そこで重要なのは、どのような判断を下すとしても、自らの選択を冷静かつ客観的に分析した上での行動であるかということ。

 日本という国は、今まで、住宅政策といえるようなことをほとんどしてこなかった。経済が豊かになって、皆の収入が増えれば、家などすぐに建つ。だから、皆、働きましょう、家を建てましょう、という音頭取りを国がしてきただけだ。折にふれ、税制面で優遇などしながら。

 素直で真面目な国民は、本当に一途に、その通りのことをした。そういう風土の中で育ってきたのが、持家信仰である。持てる者=働き者=成功者。持たざる者=怠け者=落伍者。

 何がなんでも自分のものを持ちたい、と思う人は、この数十年、我々はそうしたマインドコントロールを受けてきたのだということを冷静に見つめなおしてもいいのではないか。

 もちろん、そういう土壌であるから、持たざる者にとっては住みにくい状況ができあがっている。それで仕方なく持つ側に回る、という方々が大多数であろう。リスクを承知の上で。

 この国の、いわば青春時代が終わった今、これまでのように、皆が頑張りさえすれば、時間と共にすべてが拡大成長して行くというサクセスストーリーは、もう描けない。「バブルよ、もう一度」などと脳天気なことを夢見る人はまさかないと思うが、あのような愚行を2度も犯すほど、我々は愚かではないと信じたい。

 政府があてにならない以上、もう中途半端な美辞麗句に躍らされずに、各人が確固たる価値判断をしてゆくべきである。収益云々ではなく、欲しいものを、手に入れる。

 企業の事業用地であっても、個人の持家であっても、それらの取得は、いずれも投資である。たとえそれが金銭的に見合わないものだとしても、決定するのは投資者本人である。地価が上がるのか、下がるのかは、我々の投資における価値判断にかかっている。

 持家信仰は、「住宅無策」(※注)だったこの国らしい、けなげな国民の飼い慣らされた果ての姿のような気がしてならない。

2000年5月9日

 

※注:建築家、故・宮脇壇氏が折にふれ、使っていた言葉である。戦後のこのような住宅政策に関しては、例えば、宮脇壇『都市に住みたい』(PHP研究所)1992年 などのエッセイに詳しい。
 なお、本論とは無関係ではあるが、今また、介護保険制度という「福祉無策」が進行している。実に日本らしいやり方ではある。もちろん、国が一切合切面倒をみるから、そのかわりに消費税20%!なんてやり方よりは、いいのだろう。


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