No.7 デジタル・デバイドは問題か?
パソコンを使える人と使えない人との間の格差が、今後益々深刻になるという。いわゆるデジタル・デバイドの問題である。しかし、筆者は、これは大した問題ではないと考える。
パソコンという機械を、家電製品として捉えるならば、これほどまでに未熟なまま製品化されているものは、他にはないだろう。そもそも、使い手にある程度技術を要求するというようなレベルで商品化されていることこそが問題なのである。 従って、今後更に技術が進歩するに伴い、おそらくパソコンは初心者にも使いやすい機械となるに違いない。車にパワーステアリングやAT車が作られるようになったのと同じように。
しかし、現状でも、パソコンを使いこなすスキルなどというものは、車の運転に比べれば、むしろ簡単な部類に属すると言える。「超整理法」などの著書で有名な経済学者の野口悠紀雄氏が、そのような趣旨のことを述べている(週刊エコノミスト、2000年8月15、22日合併号)。
同記事にも書かれているが、今後数年間に限っては、デジタル・デバイドの問題は深刻化するかもしれない。しかし、上に述べたように、これは一過性の現象であって、それ以上に問題となるのは、このように情報洪水の世の中になると、 情報の取捨選択のスキルが求められる一方で、独創的な発想力というものが損なわれてゆく危険性があるということである。
学歴偏重、終身雇用制社会においては、一流校を出たか否か、一流企業に勤めているか否かによって、生涯賃金などに格差が生ずるために、子供の頃から国民が一斉にそのレールに乗ることを至上命題としてきた。 このような状況は是正すべきだという声が高まる中で、くしくも不況という救世主が、その問題を改善方向に向かわせてくれた。
しかし、筆者の考えでは、このような学歴社会というのは、真の実力があまり要求されない「楽な」世の中であったと思う。入試という定型のハードルを努力によって越えることができれば、あとは先行きが保障されていたのだから。 そこでは、ルールに則った努力だけが要求され、独自の発想力というものは、それほど要求されない。つまり、個性では差がつかない世の中である。
これからは、「実力社会」だという。これで格差が解消され、本当の意味での平等が達成できるとの考えがあるようだが、筆者の認識では、今後は、様々な場面で努力が報われないことが増える社会になると思われる。
競争を容認するということは、参加者全員のスタート位置を同じ所に置くのではなく、生まれながらゴールに近い位置に居る者はその位置からゴールを目指せばよいし、とても追いつけないような位置に置かれた者は、 そこから必死に追いかけなければならない。そのような不公平なレースをそのまま容認するのが競争社会であろう。
誤解していただきたくないのは、筆者はそのような社会を悪いというのではないことだ。皆を強制的に同じスタートラインに並ばせるのは、自由主義国家のすることではなかろう。その意味で、今後確かに「自由」の保障される社会がやってくるだろう。
後日記:当コラムを当初執筆した当時は、もっと公平な競争社会が訪れると思っていたので、上記のように書いているが、 生まれながらの不平等に目をつぶり、「がんばらないヤツは自分が悪い」などという、はしたない発言が横行する世の中になってしまった。 この現状を考えれば、スタートラインをそろえなければ、公平な競争など絶対にできない。現代は、そういう世の中に成り下がってしまった。 悲しいことではあるが。
自由と競争を保障する社会では、特定のスキルがなければ享受することのできない情報やチャンスが存在することは、決して好ましいものではない(まあ、今のところは、そのようなスキルも実力のうちと捉えられている)。 誰でもが簡単にネットに参加できるように、パソコンがテレビ並みの家電製品になるべきである。 そして、技術の進歩(というよりもむしろ既にコストの問題か)がそれを解決し、デジタル・デバイドは解消してゆくだろう。
その状況に至って、真の競争が始まることとなる。何も考えずに情報洪水に身を任せていた人は、自ら独自の発想をする能力を、相当程度失っているかもしれない。 型どおりのレールに乗ってさえいれば何とか成功を勝ち取ることのできた今までのような社会なら、それでも問題はなかっただろう。だが、本当の「競争社会」で要求されるのは、たとえ生まれながらに不利な立場に置かれている者であっても、 それを跳ね返すだけの実力である。与えられるままに情報をただ「処理」してきた人間が、その厳しい競争に勝つことは難しいだろう。
流行に乗り遅れない努力をし、最新機器を操ることで勝ち組に入ったなどと楽観視しているような人種が、実は受難の時代を迎えることになる。
情報化社会に向けた、パソコンのスキル。国際化社会に向けた、外国語のスキル。それらは、単なる手段なのであって、最も大切なのは、それらを使って一体「何ができるか」ということだ。自分の中に何のビジョンもなく、また渇望もなく、 流行に乗っているだけならば、いくら道具を使いこなすスキルがあったとしても、何の意味もない。逆に、明確な意思を持ってゴールを目指すならば、必要なスキルは自ずと身につくはずである。
有名な学校を出ているか否か。一流の企業に勤めているか否か。最先端の機械を使いこなせるか否か。そんなレベルで他との差別化ができていた時代が、いかに甘い世の中であったか。それに気づいてから後悔しても遅いのだ。
そして、真の実力で差がついてしまえば、生半可なことでは逆転はできなくなる。機会均等の世の中は、結果不平等の世の中である。長い時間をかけて開いた大きな格差は、「頑張れば報われる」などという精神論など、簡単に打ち崩してしまう。 実力社会の到来は、「可能」と「不可能」がはっきりと区分けされてしまうことを意味するのだ。
そんな血も涙もない世の中を、我々は笑顔で迎え入れようとしている。 道具を使うスキルがあるか否かなどということに一喜一憂している人は、平和ボケと言われても仕方ないだろう。
よく使われる表現ではあるが、勝利=ナンバーワンの時代が終わり、オンリーワンの時代を迎えようとしているのだ。多くの人のやっていることで競い合っても、まるで意味がないのだ。
2000年8月10日