No.9 インターネットの功罪



 インターネットが普及することによって、あらゆる情報が即時に世界の隅々まで、色々な人のもとに届くようになり、 しかも一方通行ではなく、双方向的コミュニケーションが可能となった。言うなれば、情報通信技術は、国境を取り払い、人々の立場や境遇の違いをも取り払ってしまったのである。 そこに参加する者は、ある意味で同じ権利を持ち、発信された情報は、基本的にすべて等価なものとして扱われる。

 こういう書き方をすると、現実の世の中では実に達成の困難な、理想的な平等社会が、このバーチャル・ワールドに構築されたかのような感じである。 確かに、各人の立場などに一切制約されずに言論の自由が保障されることは、極めて重要なことである。この点については、筆者にも全く異論はない。 しかし、表面的な機会均等は、一方で情報社会に不必要な混乱をもたらす恐れもあるのだ。

 インターネットが登場したころ、誰でもが自由に情報を発信できるという状況を手放しで歓迎する論調が多かったが、筆者は、大いに疑問を感じていた。 どんな情報も容易に発信できるとなると、悪く言えば「使えない」情報であふれ返る危険性が大であるばかりか、情報に翻弄され、 冷静な価値判断のできなくなる人が増えるであろうことが、容易に想像できるからだ。無規制は、混乱を惹起する。 差別的な言い方をすれば、サルに刃物を与えると、何が起こるかわからない。

 例えば、出版というシステムを例にとろう。我々が何か文章を書いて、名のある出版社から出版したいと思っても、 それが本当に出版に値するかどうか(平たく言えば、それで出版社が儲けられるかどうか)という観点からチェックされ、 それをパスしたものだけが出版を認められる。各出版社独自の判断が常に妥当かどうかという問題は別として、 このようなチェックシステムが機能していることにより、我々は、出版物に掲載されている情報が最低限信憑性のあるもの、 多くの人にとって有用なものとして扱うことができる(=あくまでも「扱うことができる」のであって、出版物すべてに信憑性、 有用性のお墨付きが与えられていると考えるのは誤りである。お墨付きは、常に我々自身が勝手に与えているものだ)のである。

 ところが、このようなフィルターを通らない情報を、容易に、各人が思うままに発信できてしまうとなると、受け手側にとって、何が信じられるのか、 何が自分にとって本当に有用なのかを判断することが、極めて難しくなる。つまり、情報洪水の中で右往左往するという無駄な作業が発生するのだ。

 繰り返すが、誰でもが平等に、思いのまま発言できるという状況は、もちろん望ましいものである。しかし、自由の保障と、横暴の許容とは違う。

 戦時中の思想統制、言論統制は、二度と繰り返してはならない愚行だが、ただそれだけを声高に批判してさえいれば、理想社会が実現できると思うのは浅墓である。

 現在の世の中にも、実は見えない統制はたくさんある。

 政府は、依然として発表すべきことだけを発表すべき形態で発表しているに過ぎないし、 テレビや新聞などのメディアも、決してありのままの情報をストレートに流しているわけではない。(※注) A新聞が左寄りで、S新聞が右寄りなどというのも、 そのような役割を担わされている(我々がそれを期待している)からであろう。こういった、コントロールされたバランスが維持されることによって、 むしろ飼い慣らされた自由、平等が確保されている。それを認識した上でメディアからの情報を受け取らないと、我々は、何を信じていいのかわからなくなる。 もしくは、すべてを無批判に信じてしまうことになる。 テレビや新聞だから信用できる、などと思うのは、幼稚というものである(そのような幼稚な無批判的信頼が、メディアの誤報や失態に対する病的なまでの攻撃となって現れる。 ニュースキャスターがたった一言不適切な発言をしただけで、鬼の首を取ったかのように抗議する視聴者が存在することを見ても、その救いがたい幼稚さがわかるだろう)。 どのような媒体から与えられた情報であっても、選別する責任は、常に受け手側にあるのだ。

 皆がこの基本的かつ初歩的な認識に立つことができれば、たとえインターネットの情報洪水にさらされたとしても、流されてしまうことはない。問題は、今までの世の中で、 既に完全なる言論の自由が保たれているなどという絵空事を幼稚に信じてしまっている人が多すぎることだ。

 そしてそこに、今度は、インターネットという拡大した自由の場が与えられてしまう。このサイトのように、ほとんど一般の人の役には立たないような情報でも、 受け取る側の受け取り方如何では、信憑性のあるものとして扱われ、また時には思想的な影響を与えてしまうかもしれない。それこそが、危険なのだ。

 我々は、無責任に情報を発信できる権利を獲得した以上、せめて情報選別能力を高める努力をすべきである。 直ちに信頼できる情報などほとんどない、というくらいに思ったほうがいいかもしれない。そうでなければ、無責任な情報再利用、情報再生産によって、 益々深刻な洪水を惹き起こしかねないからだ。

 インターネットが普及し、情報発信の自由が皆に与えられることは、喩えて言えば、 超満員のコンサートホールのステージ上で、ずぶの素人にピアノを自由に弾かせるようなものである。 もちろん、聴きたくない人は耳をふさげばよいし、そもそもそんなところに足を運ばなければよい。一方、それを聴いて自分の技術向上に役立てようという人にとっては、 願ってもない勉強のチャンスである。しかし、生まれたときから不可避的にその場に連れてゆかれ、音の違いを正しく聴き取る耳を養えなかった子供は、 それが音楽のすべてなのだと信じて疑わない人間に育ってゆくかも知れない。そして、その子たちが大人になったとき、自由と横暴をはきちがえ、 また真の統制というものの危険を理解せぬまま人の上に立つような事態にならないことを願うばかりである。


※注:これはある意味で、ニュースというものの限界である。起こった事件などを記者が文章にした途端に、 それは記者の目や思考というフィルターを通った、加工済情報となる。我々が、自ら現場で経験しない事柄に関する情報を得ようと思えば、 他人の思考というフィルターを通ったものを受け入れるしかない(だからと言って、経験がすべてだという意味では決してない)。もちろん良い、悪いの価値判断は、常に各人の行うものであり、 絶対的に良い情報、悪い情報、正しい情報、正しくない情報などが客観的に存在しているわけではない。ただ“そこに情報が存在している”だけであり、 我々自身が勝手に、あれは良い、あれは悪いなどと言っているに過ぎない。この我々自身の身勝手さ、 自分の尺度が正しいと思ってしまう傲慢さを自覚しておかないと、メディアからの情報を受け取る上でも、自分の経験を情報として流す上でも、 情報授受が暴力の振るい合いのようになってしまうだろう。

2000年9月3日


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