No.13 金融工学と不動産鑑定の接点
金融工学の分野でノーベル経済学賞を受賞したロバート・マートン博士のシンポジウムに参加した。 京都大学と日本経済新聞社が主催する「21世紀の金融と金融工学の役割」−京都からのメッセージ−〔金融技術戦略と知的ベースの拡大を求めて〕と題するもので、 マートン氏の講演のほか、日本でこの分野に携わる学者や実務家によるパネルディスカッションもあわせて行われた。
マートン氏の講演では、今後経済のボーダレス化に伴い、国境を越えた金融戦略が必要であること、現在停滞している日本経済を活性化するためにも、 家計の生涯にわたる投資戦略に資する金融商品やサービスの開発が求められること、そのためには理論の裏づけのある金融技術が不可欠であることなどが、 熱っぽく語られた。ひとつひとつ納得しながら話を伺ったのであるが、その中でも、今後はモノの価値だけではなく、人的資本価値の的確な把握が必要という話には、 特に共感した。
これからはモノもヒトも、performanceによって価値の評価がなされる時代だと思う。不動産が「所有から利用へ」であるならば、人も「肩書きから実力へ」である。 私は、以前からそのようなことを考えていて、当コーナー中3「それでも家が欲しい人のために」にも、家を買うなら購入者の「人間としての収益価格」を見極めてから買うべきだと書いた。
マートン氏はまた、今後多様化する投資ニーズに対応するために、例えば個人のprofileに合わせたアドバイス業務の必要性があると説いた。この点も同感である。 今まで保険外交員などがやっていたことをより客観的立場として、保険だけでなく総合的な投資アドバイスを独立系FPなどがやるべきだし、社労士や税理士、鑑定士もその一翼を担えると思う。 正常価格という亡霊(少々暴言か?)にばかりこだわるあまりwall streetから相手にされなかったアメリカの鑑定士の二の舞を踏んではならない、と強く思う。
パネルディスカッションで上った話題の中では、アカデミズムと実務界の間における対話の欠如という論点があった。 これは、両者がもっと積極的に歩み寄ることを努力しない限り、今のままでは事実上難しいかもしれない。それぞれの世界における至上命題が違いすぎるからだ。 しかし、「金融工学」という学問分野が生まれたこと自体、アカデミズムにおいては画期的なことではあろう。従来、経済学者は純粋経済学志向が強く、実務への応用というと低俗な意味合いを持って受け取られてきた。 数学者や物理学者はその傾向が更に強い。つまり、経済学者や数学者、物理学者等からみれば、工学(エンジニアリング)は格調が低いし (工学に携わる方には大変申し訳ないが、アカデミズム内部にはそういう偏見があるように仄聞する)、それに「金融」というもっと現場の匂いの強いものが結びつくのだからなおさらである。 私も個人的には純粋理論のエレガントさのほうに魅力を感じるのだが、今後は広い意味での「経済工学」といった理論と実務の融合分野が大事であろうとは思う。
実務界では、経験の長い人間ほど、「現実は理論通りにはいかない」と言いたがるが、金融の現場を見る限り、理論が新たなマーケットを作っていることに疑いはない。 そもそも金融工学の基礎を築いたといわれるブラック=ショールズ式にしても、現実の市場とはかけ離れた不自然な仮定に基づくものであるが、これによって金融技術が進化を遂げたのも疑いのないところである。 そして、より現実に近づけるために時系列モデルなどが考案された。このように、理論と現場が互いにフィードバックを行って、業界も学会も発展するのだ。
不動産鑑定の世界でも、従来からの価格理論だけに固執するのではなく、もっと市場の声に耳を傾けるべきである。そのための道具として、金融工学との融合は不可避であろうと思う。 そうでなければ、個人や企業に対するアドバイザー的立場にはなり得ないと考える。なぜならば、個人や企業など投資の主体が、将来にわたる最適戦略を立て、リスク管理を行う際の道しるべを提供するための道具が金融工学なのであり、 金融商品、保険、新規事業、不動産など、投資の対象となるものはすべて個人や企業が発展する上での手段という意味では変わりがないからだ (ここで誤解の無いように言っておけば、金融工学は決して金儲けのための道具ではないということだ。opportunityとそれに伴うriskを把握し、より効率の良い行動をとるための指針を与えるものである)。
金融理論と鑑定理論の融合が必要という観点から、当サイトでは、「鑑定と金融理論の融合に向けて」というコーナーを作り、筆者は個人的に学習を続けている。こちらもご覧いただきたいと思う。 不動産という最も"胡散臭い"単語には、どんな言葉が付いても格調高くなったように見えるところが不思議なのだが。
もちろん鑑定士は従来からの「正常価格」を捨てるべきだというのではない。正常価格に関する概念把握の問題は別としても、厳格な正常価格を求めることが正しい「鑑定」であるというのなら、 「鑑定」は無論大切にすべきであるが、「鑑定」以外の切り札も使えるようでないと、時代のニーズには応えられない。
そして、そのような姿勢こそが、正常価格に再び命を与え、鑑定を再構築(restructuring)することになるのだと筆者は考える。
最後に:縁あって今回シンポジウムへの参加の機会を与えてくださった小林先生に、この場を借りてお礼申し上げます。
2000年12月20日