No.17 収益価格偏重時代に思う2
〜崇拝者も批判者も同じ穴のムジナ〜
前回No.16において、近時収益価格ことにDCF法が必要以上にもてはやされている事実を挙げ、 それが日本にありがちなオーバーシュート現象であることを述べた。ここでもう少し補足したい。
筆者は、不動産の価値を収益性を基準に捉えることは良いことであると思っている。これが基本的姿勢である。 更に、金銭換算できない効用(特定の個人が特定の土地等に抱く思い入れ等)をも否定するものではない。 各自が自分の満足度を基準として不動産の投資価値を判定すべきである。 その意味で、DCF法等のテクニックが一般に広まることは良いことである。
問題点は次の2点に集約できる。
1つは、現在のように需要が萎縮している状況下では買い手側のつける値段(需要者価格)が幅を利かせるのは、 一過性の現象としては当然であるが、この状況こそがスタンダードで、今後もずっと続くかのごとき論調がかなり見受けられるということ。
もう1つは、収益還元法の有効性や限界を知らない人々が、こぞって当該理論を絶賛したがるということである。
第1の論点に関しては、次のことが言える。
日本はここ数十年の成長期を終え、ついに成熟過程に入ったとみることができる。イギリスやアメリカの過去の歴史を持ち出すまでもなく、 一通りの発展を終えた経済においては、短期変動は別として、資産価格の長期継続的上昇はないといえる。 従って、今後日本の不動産価格は、長期的に見て経済成長にリンクしてゆくだろう。 現状のところ、定常的な状態、つまりファンダメンタルなレベルに回帰していないと思われるため、地価下落が止まっていない。 このような状況では、収益価格がもてはやされる。しかし、下がるところまで下がりきったあと(土地によっては、極端な話、底は0円ということもあり得る)、 安定期が訪れれば、需要者側の見方と供給者側の見方が拮抗してくるだろう。現在は、その過渡期にあることを認識すべきである。
上記論点より憂慮すべきなのが、第2の論点である。
社会に目新しい考え方や方法が出てくると、すぐにそれを手放しで歓迎する風潮がある。 それも、理論的な検討なしにである。もちろん、収益還元法についての理論的検討義務を負っているのは我々不動産鑑定士なのであり、 世間一般の人にまでそれを求めることはできない。ただ、我々不動産鑑定士の声が小さいと、あやまった理論や見解までも流布されてしまう 危険性がある。そこが一番問題だ。
昨今、DCF法や収益還元法一般に関して書かれた新聞、雑誌記事のみならず、一部の著書をみると、「これこそが正しく、 今まではすべて誤り」といった論調が見られるが、そのような発言の主は、概して理論の本質を理解していないと思われる。 無論、本質を理解していれば、そのような発言は出てこないはずだ。とにかく「目新しいものは良い」というがごとき評論家の意見には、 相当な注意が必要だ。
そして今、「DCFは時代遅れ」とのキャッチフレーズの下、新手の意見が台頭しつつある。 即ち、アメリカではDCFによって投資価値を判断するようなことはとっくの昔に廃れており、 現在はDDCFやリアルオプション等のいわゆる金融工学的手法を用いることこそが最先端なのであると。
筆者自身も、これら金融工学的手法を発展させるべきと主張する1人ではあるが、問題なのは、 その理論の中身をよく理解しないまま絶賛する風潮が、ここでも起こっていることだ。
金融理論の多くが、複雑な現実を単純な理論で説明するために、 かなり不自然な仮定を置いて考察されているということすら、一般にはあまり理解されていない。ただ、それを強調すると、 今度は、「だから理論など役に立たない」という批判が出てくるので、まったく困ったものである(※注)。
例えば、価格過程に確率論を持ち込むことについて、筆者も当サイトでモデル提示をしているが、 価格変動に確率分布を導入するのは、いわゆる効率的市場仮説の立場に立っているからであり、 特に、市場がストロングフォームで効率的であるならば、すべての公開、非公開情報を総合してみても、将来のことはまったく予測できない といえる。そこで、サイコロを振って決めよう、と言うのが確率論を持ち込む意味である。
(より正確には、価格変動にランダムウオークの考え方を導入するのは、価格過程をマルコフ過程の一種であるウイナー過程として捉えることであり、 将来の状況は過去の実績から何らの影響も受けないというマルコフ過程の前提に沿うためには、市場はウイークフォームの効率性を満たしていればよい。)
金融工学の中で最も難解で、ありがたいもののように言われているブラック=ショールズ式でも、金利や原資産のボラティリティが オプションの権利行使日まで変動しないとの仮定を置いているが、現実の世の中は、そんなに単純ではない。 しかし、複雑な事象を複雑なまま分析しても、解を得ることは一般に不可能である。理論とは、元来無数にある変数について、そのいくつかを定数に置き換えることによって変数を減らし、 方程式を解けるようにするものである。どんな理論をもってしても、現実を完璧に説明しきることはできない。これはすべての学問における普遍的な真理である。
だからといって、経験則や勘を頼りに仕事をしようというのは、人類の英知を否定するに等しい愚行である。理論は崇めるものでも、切り捨てるものでもない。 自ずからある限界を認識しつつ、利用するものである。
収益還元法を崇めたり、もうダメだと切り捨てたり、さらに来たるべき新理論を手放しで歓迎したり・・・。それらはすべて非科学的な態度である。 絶賛するにしても、批判するにしても、理論の本質を理解してからするべきだ。ただ上っ面を聞きかじった人の方が概して声が大きいというのが社会の常であるから、 注意したほうがよい。
※注:理論を振りかざす人間は現実を見ていないとか、世の中は理屈通りには行かない等と言いたがる人がよくいるが、 そのような姿勢が、逆に理論崇拝にもつながる。
例えば、天気予報は、時間と費用の制約の中で最大限の技術を駆使して行われるのにもかかわらず、 はずれることが多いが、もっとコンピュータの能力が向上すれば、完璧に的中するというものでもない。自然は「偶然」で出来上がっているからだ。 だからといって、天気予報なんてどうせ当たらない、気象庁はあてにならない、などというのは的外れである。 そういう人は、今日傘を持って行くべきか否かを、下駄を投げて占っていればよい。
人間が問題を解決する方法には2通りある。複雑な現実に単純な仮定を当てはめて近似値としての解を求めるか、あるいは複雑な現実をありのまますべて受け入れ、 解を求めること自体を放棄してしまうかである。前者が科学のアプローチであり、後者が宗教のアプローチである。多くの人は、そのどちらも信じきれないために、 適切な解を与えてくれない科学の無力を嘆き、理論を批判するのだ。
そもそもこの世に絶対的真理などというものは存在しない。唯一絶対の真理があるとすれば、唯一絶対の真理などないという事実だけである。 このことが理解できる人は、科学理論を崇拝したり、反対に批判したりもしないはずである。
構造主義科学論を標榜する生物学者の池田清彦氏は、その辺りの人間の浅墓さを痛切にえぐり出している。しかも、科学も1つの宗教にすぎないと喝破している。 実に痛快である。
詳しくは、
・池田清彦『構造主義科学論の冒険』毎日新聞社、1990年
・池田清彦『科学は錯覚である』宝島社、1993年
等を参照されたい。
2001年3月18日