No.21 幼稚な国の幼稚な現象



 絶大な人気を誇る首相のお蔭で、国民の政治に対する関心度が高まっているという。

 この国では、特に若者の政治離れが言われて久しいが、その意味で、きっかけはともかく、 多くの人たちが政治に注目するようになった状況は好ましいことであるとの意見もある。

 本当にそうだろうか。

 私は、昨今の現象を、むしろ好ましからざることであると思っている。 それは、元来幼稚なこの国の人々が、その幼稚さを堂々と正当化してはばからないような風潮に見えるからだ。

 6月27日付朝日新聞夕刊「窓」欄に、「子供の国」と題する論説委員の文章があった。次のような内容だ。


 統一前の西ドイツの首都ボンは小さな街で、一般市民が首相や著名な政治家と出くわすこともしばしばあった。そのような場合でも、 人々は騒ぐことなく素知らぬ顔をしていた。あれこそ大人の態度なのであって、もし日本で同様の状況があったならば、 きっと皆大騒ぎするに違いない。
 昨今、珍しく人気の出た首相が街頭演説をすると、多くの人々が集まるが、 皆演説の中身はそっちのけで、ただ「実物を見た」といって騒ぐ。 また、国会で野党が論戦を挑むのをテレビ中継で見て、「いじめるな」と電話したり、メールを送りつける人がいる。 議会でのやり取りをいじめとしか取れないのも相当に子供っぽい。

 まさにその通りである。まるで、テレビのお笑い番組で、自分の贔屓(ひいき)の芸能人がいじめられたと言って、局に抗議の電話をしているようなものだ。 これほどまでに幼稚な行動を起こす人たちがいるうちは、この国の国際化など夢のまた夢であろう。 戦時中と結びつけて云々したくはないが、8割以上の人々が1人の首相を支持するなどというのは、およそ健全な自由主義国家とは思えない。

 そしてこの記事は、次のような文章で結ばれている。


 『子供に「改革」が必要だとすれば、ちゃんとした大人になることだ。それには時間がかかるのも仕方がない。
 この国の改革には、かなりの時間を要しそうだ。』

 「あばたもえくぼ」という言葉がある。また一方で、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉がある。

 好きになった相手の特質はすべて良く見える一方で、嫌いな相手の言動はすべて許せない。そのように幼稚な人々には、 違う思想や文化を持つ人々と尊敬し合い共存するということなど無理だろう。政治や経済の改革より、 こちらの構造改革の方が前途多難である。だいたい、「国際化」というと、英会話が必要などという貧困な発想しかできないこと自体が子供だ。

 私は普段、思想的なことは極力書かないようにしている。それは、この国では、明確な主張をする人間に対しては、 その内容如何にかかわらず、不当で幼稚な風当たりが強いからだ。

 このような文章を書くと、「大多数が支持する内閣をけなすとはけしからん。良識を疑う。」とか、「おまえは左か。」といった声が聞こえてきそうだ。 私は、首相や内閣や与党を非難するつもりなど毛頭ないし、また、野党を擁護する気もさらさらない。 そもそも「誰を支持する」というような考え方を持ち合わせていない。 どんな立場にいる人のどんな行動や発言であろうが、その都度客観的に判断し、またそれに対し良いとか悪いなどといった独善的な価値判断を挟まずに、 冷徹に評価を下す。

 所属や立場と、その人の能力とは全く関係がないし、絶対的に正しい人もいなければ、全く無能な人などもいないはずだ。 誰かを絶対的に支持することは、誰かを頭ごなしに否定することと表裏一体である。 そこには、冷静な判断力というものが欠如し、専ら気分やムードだけが支配している。

 特定の立場から物事を見るのではなく、また仮に何らかの集団に属するとしても、一切の統制を退け、常に独自の意見を自分一人の責任において堂々と表明する。 お互いの価値観を尊重し合い、人や世間の風潮に迎合などしない。 それが、自立への第一歩である。

この文章を書いていて思ったが、「子供っぽい」という表現は子供に失礼かもしれない。本物の子供は、もっと純真で、時に冷徹だ。

2001年6月28日