No.26 責任の取り方



 有名企業や政治家の相次ぐ不祥事などに関して、日本人は取るべき責任を取らない国民だという趣旨の評論家等の発言が見られる。 その意味するところは、日本では長らくの間、ビジネスなどで個人が前面に出ることは少なく、 属する集団を主体に行動してきているので、 各個人が結果に対して個別に責任を負わされることが少なかったということであって、 誰も最後まで責任を取らない無責任な人間の集まりだというような意味ではない。

 経済的発展という共通目標のために、産業界のみならず社会全体の中に効率化、 均一化こそがそのための良い方法であり、会社のような集団は家族的で濃密な人間関係を構築するべきだという思想が、 元来「人と違うことを恐れる」文化と共鳴して、「前に出ない個人」を育成していったものと思われる。

 経済が倍々ゲームでうまく行っている時はよいが、景気が低迷すると水面下で足の引っ張り合いが始まる。 そうなると、今まで「集団の倫理」(その集団だけで通じる常識)を行動規範としてきたことによる問題点が白日の下に晒されるようになる。 近時発覚している数々の不祥事は、このようなカラクリで暴かれたものであって、もしバブル経済が続いていて、 今も皆がマネーゲームに心酔していたならば、決して表には出てこない類のものであろう。

 人間である以上、誰にでもミスはある。大事なのは、いかにリカバーするかという点だ。 例えば食肉業界の不祥事は、利益優先という会社の論理に基づいて行なったもので、個々の社員はむしろ被害者と言えるかもしれない。 だが、やはり会社の方針に異議を唱えなかった個々の社員の責任は重い。 大阪で有名な迷惑駐車に関するCMに、「私だけやない。皆もやってるやないの。」というのがあったが、 皆がやっているのだから自分だけ非難されるいわれはないという妙な論理は通用しない(不正を暴かれた某代議士もそんなセリフを吐いていたが)。

 離党したり要職を退けば責任を果たしたとする永田町の論理も理解できないが、責任を感じるなら議員や大臣を辞めろという世論もおかしい。 辞職が責任を取ることになるという論理は、とりもなおさず多くの国民が、議員という肩書自体に価値を認め、妬ましい存在だと思っているのであろう。

 集団とか肩書などのアイデンティティから離れ、いかに個人として意思決定してゆくか。主体的に行動した結果、ミスを犯したならば、 今度はいかにそれを償い、同じ過ちを犯さない手立てを講じるか。そんな当たり前の意識改革が、今必要とされている。

 これまで日本の企業では、会社の決定に対して客観的かつ批判的な意見を述べる社員は、冷遇されてきた。 「一匹狼」という言葉は、協調性のない人間という非難の意味をもって使われることが多いが、どんな集団の中でも「一匹狼」であることこそが、 自分に責任を持たせることの最良の手段ではないだろうか。

 人と違うことを恐れる時代から、人と違うことを恐れない時代へ。そしてさらに、人と違うことを喜び、誇りとする時代へ。 それが社会の成熟化であろう。

 しかし、巷に言われている「自己責任」という言葉には注意が必要である。個が確立していない社会では、力や数の論理で勝った者が、 弱者を頭ごなしに否定するような横暴がまかり通る懸念がある。真の自己責任の原則が全うされ、大組織の一員にも個々に責任が問われるようになれば、 そのような弱い者いじめは減少するはずである。また、弱者救済のセーフティネットも必要である。

 なお、責任を取る社会が成熟社会だというのは、欧米がそうだからという根拠希薄な西洋崇拝主義とは違う。 長らく日本を支配してきた村社会的お友達集団至上主義では、右肩下がり経済は乗り切っては行けないということだ。

2002年4月6日