No.29 ビンボー万歳
当コラムは、次のNo.30と共に、最近読んで共感した本を紹介することが目的であり、 何ら学術的な内容ではなく、極めて私的な興味に基づくトピックであることをお断りしておく。(※付記参照) |
森永卓郎『ビンボーはカッコイイ 好きなことを仕事にする幸福』(日経ビジネス人文庫、2002年5月)を読んだ。 著者は、大手都市銀行系シンクタンクの主席研究員だが、ニュース番組などのコメンテーターとしてもお馴染みだ。
この本は、前書きにも書かれているが、当初1999年に単行本として出版されたものだが、著者曰く、今までで一番売れなかった本だそうだ。 「少し時代を先取りしすぎた」のがその原因と、著者は書いている(※注1)。
本の趣旨は、これから日本では所得格差が拡大してゆく。金持ちは全体のせいぜい1、2割。それ以外は貧乏人。 景気が回復しても、もう給料は上がらない。だからこの苦境を脱しようと悪あがきしても、それは無駄なことで、 それよりも各自が人生を楽しむことを考えよう。金銭的に豊かになることだけが成功ではない。といったものだ。
私がこの本にひかれたのは、まさに私自身がそんな考え方で人生をずっと生きてきたからだ。私は、お金を儲けるということに 何らの価値をも置いていないし、金儲けをした人が成功者だなどとはまったく思っていない。 もし世間の人々の多くが、「所得が多い人=成功者」と考えているとしたら、それはそれでよい。それが間違いだとも思わない。 だとすれば、私は最初から、成功者になどなりたいとは思っていないのだ。
同書では、ただひたすら自分のやりたいことだけをやり、不安定な収入の中でも生き生きと楽しんでいる人たちが 紹介されており(いずれも著者が実際に会って感銘を受けた人たちだそうで、サーファー、カメラマン、 メイクアップ・アーティストなど様々だ)、彼らこそ成功者ではないかと説く。 中には事業が軌道に乗って金銭的に豊かになった人もあるが、それは結果としてであって、 お金のためにあくせく働いたためではない。好きなことを貫いていれば、お金はついてくるかもしれない(ついてこないかもしれない)。 結果がどうあれ、好きなことを続けるというそのことだけが重要で、それが、人生を豊かにする道なのだ。 同書では、そのように生きている人たちのことを、賞賛の意味を込めて「ビンボー人」と呼んでいる。
翻って、私の人生におけるポリシーは、「好きなことだけする。嫌なことは一切しない」であるから、 「ビンボー人」の仲間に入れてもらえそうだ。
私は、会社勤めをしていた時代から、どうしても普通のビジネスマンとは意見が合わないことがあった。 そのひとつが、「なぜビジネスとは借金をしてまでやらなくてはならないのだろう」ということだ。 どのような会社でも、借入金があるのは当たり前で、自己資金だけで事業を行なっている会社は少ないだろう。 しかし、なぜ人から金を借りてまで事業を拡大する必要があるのだろう、とずっと思っていた。 そのような話をすると、大抵の"有能な"ビジネスマンは、「あなたはビジネスの何たるかをわかっていない」 と、私を鼻で笑う。そんなものかなあ、と思いながらも、どうしても納得はできなかった。 人から金を借りて、つまり自分の力量を超えて背伸びをして、それで大きな成果をあげたとしても、そんなものはその人の実力ではないし、 そんなことで大金を得たとしても、楽しくないだろうな、と私は考える。
元来アーティスト指向の私からすれば、自分の感性や腕一本で築き上げたものだけが本物で、大金を使って他人を駒のように動かして、 それで莫大な利益を上げたとしても、それは人のふんどしで相撲を取っているだけで、搾取行為以外の何ものでもないと思う(※注2)。 そうやって大金を得たとしても、私は何らの達成感も得られないと思う。だから私は自由業者であり、技術屋ではあっても、 "社長"にはなれないと思う。 独立開業したからには大きな家に住んで、高級車に乗って、夜ごと飲み歩きたいとか、 晩年には仕事をやめて、田舎でボーっと暮らしたい、などという目標を持つ人も多いようだが、 私はそれらのいずれもしたいとは全く思わない。そんなことで幸せを感じることはないだろう。
私がここ数年、金融工学を学んでいるという話をすると、大抵の人は、それがどのようにビジネスに結びつくのか、と問う。 私は、私の本業である不動産鑑定の分野では、今後金融分野との融合が進んでゆくが、両方に精通している人が少ないので、 今のうちに勉強しておけば将来きっと役に立つから、と返答する。しかし、これは実は表向きの答えだ。 ここで本音を暴露すると、私は、金儲けのことを思って勉強したことなど実は一度もない。 収入に結びつく勉強など、学問ではないし、卑しいとすら思っている。ただ単に楽しいから勉強するのだ。 ご飯を食べているよりも、お酒を飲んでいるよりも楽しいから、いつも本を読んでいるのだ。 ただそれだけだ(※注3)。そして、そんな情熱だけは、絶対に誰にも負けないと思っている。 寝る時間さえ惜しんで何かに打ち込んだ時、どんなことでも花開く。いや、花など開かなくて良い。 楽しいことだけやって生きてゆければ、それで人生成功ではないか。
おそらくまだ今の日本では、こういう生き方は、「変わり者」と呼ばれるのだろう。 私は、変わり者と呼ばれると身震いするくらい嬉しい。人と同じような人生だったら、生きている価値などないではないか、 とビンボー人の私は思う。
お金など、必要になれば必ずついてくる。そう固く信じている。必要以上のお金など要らない。お金で本当の幸せなど得られないが、 反対に人は、お金が原因で簡単に不幸になる。私が今の仕事を選んだのは、自分の好きなことだけをして、いつも幸せでいたいからだ。 そういう機会を与えてくれている現在の職業に感謝しているし、決して豊かでないながら、こんな生き方を許してくれている妻にも心から感謝している(と付け足しておこう)。
2002年6月8日
※注1:時代の先取りというより、おそらくこのような考え方は、この国では主流にはなりえないだろう。 自由に生きている若者を見て嘆く年配者が多いが、会社の名前と子供の学校名と手に入れたマイホームで辛うじて 空しい自尊心を満たしていながら、その実、会社に飼われてつまらない仕事をし、一生ローンで首が回らないような人と、 例えばミュージシャンになりたいという情熱に賭け、フリーターを続けている若者と、一体どちらの人生が幸せだろうか。 しかしこの国では、辛いことを我慢するというところに美徳を感じるような人が多いので、この常識は 今後も大きく変わらないだろう。我慢の後に喜びがあるという人も多いが、今ここにあるすべてを楽しめない人は、 一生楽しめることはない、と私などは思うのだが・・・。
「そうは言っても人生そんなに甘くない」という反論が必ずありそうだが、好きなことのできるポジションを 自ら獲得できるかどうかが、まさにその人の実力なのだ。
※注2:仮に1人の人間が休みなく働いて達成できる売上を2,000万円とし、手元に残るのが1,000万円とする。 一方、たくさんの従業員を使って事業を拡大し達成できる売上を2億円とし、自分が手にすることができるお金を3,000万円とする。 その所得差額の2,000万円は、自分以外の人の尽力によって達成されたもので、本来その利益は社員に配分されるべきものである。 自分一人で達成できないはずの利益を経営者が手にしているとしたら、それは搾取である。
私は資本主義を否定する者では決してないが、 正しい資本主義とは、資本を効率的に使うことで価値を創造することであって、弱者を踏み台にして強者が利益をぶん取るもので あってはならないと思う。その意味で、スポーツ選手や芸術家やタレントは、自分の技能だけで稼いでいるから本当の実力と言えるが、 金を借り、人を借りて大事業を成功させても、自分が汗を流した以上に取り分を主張することは、私は潔しとしない。 人を踏み台にして儲けるというのも実力の内なので、実力社会ではそれも評価されて良い。 だが、私はそんな生き方は絶対にしたくない。もちろん、自分の取り分は少なくとも、大事業を成功させたいという欲求を持つ人も 多いと思うが、事業というものに興味のない私にとっては、「ご苦労様」としか思えない。
※注3:私が実はお酒も大好きであることは、 私のプライベートサイト をご覧になった方は良くご存知のことと思う。 対象が何であっても、好きになったら徹底的に極めないと気がすまないのだ。
※付記:当コラムに対し、次のような意見をいただいた。それは、当コラムが他と比べ極めて私的な内容であり、 かつ私の自分勝手な生き方を披瀝しているだけであって、サイトの中で浮いてしまっているという指摘である。
当コラムの第一の目的は、共感を得た本の紹介であり、またそれが私自身の人生観に非常にシンクロしたという 点の説明である。私は確かに手前勝手な人間だが、自分の意見を主張するからには、それ以上に他人の意見を尊重するというのが絶対の前提条件である。 最も大切なのは、各人が自分の生き方をちゃんと持ち、互いに尊重し合うということ。とりわけ家族のような親密な人間関係ならば、 各々の意見をすべてぶつけ合い、皆の最大幸福をもたらす共通解を探ることが最も大切である。 私が本文のような自由奔放な生き方を許されているのは、そのようなコミュニケーションの結果としてであって、 またそうでなければ家族が家族たり得ないと考えている。
当コラムの真意は、あえて「何事も情熱こそが大事である」という私の信条を強調することで、そのように自分なりの価値観を しっかり持つことが大切だと訴えることにある。また、自分の意見を表明せず、「家族のため」と我慢をすることが家族愛であるかのように 考えているような人に対し、だれかが我慢をしなければならないような人間関係は、真の人間関係ではなく、 そのようなところに真の家族の幸福はありえない、という痛烈な批判の意味も込めている。2002年7月16日付記