No.30 街によって変わる人生
少し前になるが、『東京圏 これから伸びる街』(増田悦佐著/講談社)(※注1)という本を読んだ。
「街を選べば会社も人生も変わる」とサブタイトルがつけられているとおり、皆が自分の住みたいところに住み、 行きたいところに行くようになると、日本経済にもすばらしい変化が起きると著者は主張する。やや短絡的で挑発的な表現もあるが、 そのような点も含めて、私は著者の主張に全面的に賛同する。
同書は、「街にも寿命がある」「街にも性別がある」「東京圏は『南西』高『北東』低」「性格のいい街わるい街」「東京圏はこれからどうなる」 の5章で構成されているが、なかでも特に共感を覚えた部分を以下に紹介する。
うろつきまわっておもしろくなければ街ではない(p.70)
怪人二十面相が住めるのがほんとうの街(p.72)
ただ高級なお屋敷が集まっているだけでは、街とは呼べない。「閑静な住宅街」などは、人間らしい住処とは言えない。 何の目的もなく徘徊することが楽しいと思えることが、街と呼べる条件だと思う。また、隣近所が他人のプライバシーに干渉するような 場所は、都会とは言えない。著者がいみじくも書いているが、
「怪人二十面相の家族たちが『あいつは悪いやつの家族だ』ということで 村八分にされるようなことはあってはならない。たとえ極悪人の家族でも、本人が罪を犯していなければ、他のだれかれと区別なくふつうに 生きてゆける場所でなければならない(平等性の原則)。」(同書p.73)
という、徹底的な平等性、客観性、合理性が保たれていなくてはならない。そういう場所こそが、人間らしく暮らせる場所なのだと、私は思う。
「貸家住まいのワカゾウ」にこそ分かる街の良し悪し(p.70)
同書では、博報堂生活総合研究所が85年に行なった「タウンメッセージ調査」(※注2)を取り上げ、街には「おとこ街」「おんな街」
「アンドロ(両性具有)街」といった性別があり、東京の街で人気が高いのは両性具有的な街(※注3)だという結果を紹介している。
また、このような街の良し悪しが分かるのは、貸家住まいしかできない若者なのだとしている。
どこに住みたいかという質問に対して、現実に自分が住むことのできる街の中から選択するような定住志向を持ったサラリーマン世代には、
ほんとうの街の魅力などわかるはずはなくて、身のほどを知らないワカゾウにこそ、良い街を嗅ぎ分ける能力があるという著者の主張は、
至当である。次のような文章は、まるで私自身が日頃言っている言葉のように思える。
「『どこに住みたいか』と聞かれたら、ふところ具合と相談して考えなきゃならないというのは、情けない負け犬の発想だと思う。」(p.89)
「冷静に考えれば、いまの世の中でわざわざ家を持って得になることは何もない。」(p.89)
「早い話が、たいていの大企業に勤めているサラリーマンは、もし今の会社をクビになったり、いまの会社がつぶれたりして再就職したら、 年収は三、四割落ちてしまう。月に10万円とか15万円とかのローンを、年収が三割減っても払い続けられますか?」(p.90)
「しかし、背伸びをしていいところの貸家に住んで、家賃が払いきれなくなったら、また家賃の安いところへ引っ越せばいいだけの話だ。 そして、もちろんこれはその人の感受性次第だけど、センスのいい店がいっぱいある街に住むと、たしかに自分も垢抜けていく。」(p.91)
「ローンを払えば最後に家が残る」は本当に得か(p.99)
高い家賃は「行動の自由」を確保する保険料(p.100)
このあたりの議論については、当サイトでも繰り返し展開しているが、最後に家が残っても、ローンを完済する頃には当初の市場価値はなくなっているし、
完済できない場合に転売しようとしても、昨今の状況ではローン残高だけが残る結果となる。つまり、「家が残る」とは、自分は家のオーナーだという
空しい自負心だけが唯一残るということだ。そして、そんな経済的な意味よりももっと深刻なのは、
一ヶ所に縛られて、固定的かつ保守的な行動様式が染みつくことの人生全般に対する弊害だ。
日本人に多い定住志向は、私が思うに、心理学者エーリッヒ・フロムの言う「自由からの逃走」(※注4)ではないか。
つまり、自由が欲しい、自由が欲しいと言っている人間ほど、本当の自由が与えれると、怖くなって自らそこから逃走し、
すすんで束縛を求めるようになるのだ。
一方、真の自由を求める人間にとっては、本拠地を一ヶ所に決めるということは、重苦しい以外の何ものでもない。
よい街は三つの「カイ」が決める(p.109)
三つの「カイ」とは、界隈性、徘徊性、回遊性のことだが、まさに言い得て妙である。 その土地独特の雰囲気があり(界隈性)、歩き回ることを楽しませてくれる仕掛けがあり(徘徊性)、 歩き回るたびに新しい発見がある街(回遊性)。それは、計画的な再開発で作り上げられた 絵に書いたような近代都市とは全く違う。「まちづくり」などと呼ばれるほとんどのものは、街を殺しているのだ。 自然発生的に魅力が生まれ、日々それが更新されてゆく街。無秩序で、猥雑で、無節操。つまり、 著者も言うとおり、「いい街はなごみ系でも、いやし系でもない」(同書p.109)のだ。
連絡を取り合うほど会いたくなる習性(p.182)
この点も私が昔からずっと主張していることだが、通信技術が発達して、どんなに遠隔地でも瞬時に連絡が取れるようになると、
一般に言われているように、距離の障壁がなくなる、などということは決してなくて、むしろ
近くにいることの価値が高まるのだ。
次のようなことを想像して欲しい。もし、映像の美しさだけでなく、匂いまでも正確に伝えることのできる
TVが開発されたとして、そのTVで料理番組を見たとしたら、今現在の放送より満足度が高まるだろうか? 答えはきっと、否、である。
むしろ欲求不満が高まるだけだ。メディアによってリアリティが高まるということは、それは「真にリアル」なものではないという現実をより強く
認識する結果となる。
電話やメールが発達し、リアルタイムで遠隔地の人間と連絡がとれるようになると、ますます直に合うということの重要性が
高まる。インターネットの発達によって、居ながらにして買物ができるようになると、ますます店頭で買物をすることの意味が見直されているはずだ。
よって、情報通信技術の発達は、一極集中を促すことはあっても、地方分散に寄与することはないと断言できる。
偽物が発達すればするほど、本物のよさが際立つ。大切なのは、偽物自身の持つ良さを伸ばすことなのに、それに反するような技術開発はダメだ。
私が、TV電話など絶対に普及しないと考えている理由も、実はそこにある(※注5)。一方、静止画像送信のできる携帯電話は、
バーチャルはバーチャルであってリアリティではないのだという利点を増幅させるもので、こちらは当然に普及する。
新都庁の候補地は四つの「直角交差都市」(p.279)
直角交差都市とは、2つの鉄道路線が直角に交わっている都市のことを言っているのだが、これは、四方から人を集めることができる という意味において、活力があり、発展性のある都市の条件である。著者は、今後新宿に代わって新都庁の候補地となりうる街として、本命:吉祥寺、 対抗:立川、穴:二子玉川、大穴:調布と書いている。但し、吉祥寺以外の3都市は、「未完の直角交差都市」としている。 現状では1つの優勢な鉄道路線に、もうひとつがぶつかってそこで堰き止められている状態で、まだ発展余力があるということだ。 調布というのは本当に大穴だと思うが、吉祥寺はかなりリアリティがある。二子玉川を除いて、皆、中央線、京王線方面であり、 東京西部の中にあって、むしろお高く止まっていない点が、いずれも包容力を感じさせる。実際に都庁移転がすぐにあるとは考えにくいが、 東京の将来を考える上で、重心がより西進するというのは正しい見方といえる。
最後に一つ苦言を呈しておきたい。
1960年代の終わり頃開発された郊外型ショッピングセンターの比較として、二子玉川と、大阪の千里中央を取り上げているのだが、 その中で、次のようなくだりがある。
「その後、千里ニュータウンは、日本中のニュータウンの例にもれず、入居した世帯のお父さんたちが歳を取るにつれて 街全体が老朽化してしまった。いまはもう、いつ主要テナントの撤退でショッピングセンター全体が店仕舞いに追い込まれても おかしくないくらい寂れきっている。」(同書p.284)
著者は、東京に関しては実に的確な記述をしているものの、大阪については、本当に現地を見て書いているのだろうかと疑問を抱かせる。
上記文章の前段の「街全体が老朽化」という表現は、確かに千里ニュータウンの住宅地を見たときには、妥当する表現と言えるが、
一方で、若い世代がどんどん流入しているのも事実である。
確かに千里ニュータウンは、関西では地価の高い地域として、
バブル期などは、一般庶民にはまるで手の届かない高値の花となってしまい、それがますます街全体の高年齢化を加速した。
だが、賃貸物件も多いのが特徴で、小さな子供を持つ家族が、利便性と良好な環境を求めて集まっている。
ニュータウン内の近隣センターと呼ばれる商店街は確かに寂れているが、千里中央の商業ゾーンは、なかなか活気がある。
ニュータウン内だけでなく、背後に豊中市、箕面市といった生活水準の高い人口が控えており、ニュータウン単体としてではなく、
周辺を含めた北摂地区の中心的商業ゾーンとなっている。道路が計画的に整備されていることと、何よりも大阪で一番の大動脈である
地下鉄御堂筋線(正確には、相互乗り入れしている北大阪急行電鉄)の終点であるということも大きな要因と言える。
私は、日頃この街を使っている人間として、その賑わいを実感している。それだけに、上記の文章には大変な違和感を感じた。
本の主題が「東京圏」ではあるものの、それ以外の地域に関しても、ちゃんと現地調査を踏まえて書いて欲しかったと残念に思う。
私は、関東の出身でありながら今は関西に本拠を構える者として、両者を冷静に比較することができる。 ゆえに本書のような著作には興味を抱く。身軽さを最も大切にし、自分の住みたい所で好きなことをするというのをポリシーとしている。 わりと頻繁に東京−大阪間を新幹線で往復していて、自分なりに両者の魅力を見いだし、エンジョイしている。 この行動様式は、昔からの私自身の価値観に沿ったものであるのだが、ますます一ヶ所に縛られることの無意味さというものを実感する。
日本人に根強い定着指向が薄らいでゆけば、地域エゴの張り合いというのもなくなってゆくように思う。 そして、時代は着実にその方向に進んでいるものと確信している。
一ヶ所に定着するのではなく、その時々に自らが選び取った街で生きる。それによって、人生そのものが変わってゆく。 私は、旅行というものを滅多にしない人間だが、それは、日々の生活が旅そのものだと思っているからだ。 毎日がエキサイティングと思える街に暮らし、働き、日々の生活の中に、常に新しい発見をする。そして、もしそれに飽きたら、 また本拠地を変えればいいのだ。
でも、旺盛な好奇心さえあれば、都市での生活は、常に刺激を提供してくれる。 例えば家の廻りを自転車で走ってみる。いつもは通らない路地に入っただけで、新たな発見がある。 繁華街の人ごみを歩いているだけで、昨日とは違う何かをみつける(※注6)。 それこそが、旅であり、私の人生そのものだと考えている。(※付記参照)
2002年7月15日
※注1:増田悦佐『東京圏 これから伸びる街−街を選べば会社も人生も変わる』講談社SOPHIA BOOKS、2002年
※注2:博報堂生活総合研究所『タウン・ウオッチング−時代の「空気」を街から読む』PHP研究所、1985年/PHP文庫、1990年
この本には私も少なからぬ衝撃を受け、今も大切な蔵書のひとつである。現在は、残念ながら絶版のようである。
※注3:同書では、アンケート調査をもとに、上野、新宿、池袋、浅草などを「おとこ街」、原宿、青山、銀座などを「おんな街」、 渋谷、吉祥寺、下北沢などを「アンドロ街」としている。
※注4:Erich Fromm, "Escape from freedom", 1941
※注5:電話の利点は、相手の顔が見えない点にある。顔が見えてしまうと、電話を手控えようという心理が働くだろうし、 恋愛も生まれにくいかもしれない。もちろん顔を見て話したいというニーズもあるだろうが、携帯電話の画面上で顔が見えるとしたら、 現実に会っているのとは違うのだというフラストレーションが高まるに違いない。同様の理由によって、TV会議も普及しないはずだ。 このように、動物としての人間の生理に反する技術は、人々に受け入れられにくい。
※注6:私は、東京に生活している頃は、時折、用もないのに新宿や渋谷の雑踏を歩き回っていた。 関西に来てからは、同様に梅田の雑踏を歩き回っている。人々が仕事や遊びなど、様々な目的で行き交っている都会の景色を見るだけで、 言い知れないパワーをもらえるような気がする。
繁華街にできるだけ近いところで生活し、街を自分のものとして実感していたい。 家の近くでおいしいコーヒーが飲め、おいしい食事をすることができ、流行のファッションに触れることができ、あらゆる本を入手可能で、 街はいつも若者の熱気にあふれている。どんなに歳をとっても、私はそういう場所でずっと暮らしていたい。
現在の住居も、週末などは夜中まで大声で騒ぐ若者の声が聞こえたりするが、それが迷惑どころか、私には心地よく感じる。 独身者ならいざ知らず、家庭を持つとそんな環境での生活はむずかしい、と考えられがちだが、私は自分の子供にもこういう場所で育って欲しいと思い、 それを実践している。
※付記:No.29の「付記」に書いたが、No.29及び当コラムの終盤部分における私の私的な人生観の記述に関し、 当サイトを常に好意的かつ冷静に受け止め、的確な論評をしてくださる方から有益なご指摘をいただいた。それは、これら2つのコラムが、 あまりにも私のプライベートな価値観を強調しすぎており、 サイトの中で浮き上がってしまっているということである。確かにそのとおりだが、これも私の主張のひとつだ。
詳細はNo.29末尾の「付記」をご参照いただきたいが、私がこれらの文章において最も強調したかったのは、 各人が確固たる自分の価値観を持ち、主張し合い、受け入れあうことによって、初めて家族のような人間関係全体としての最大幸福が達成されるということである。 日本人にありがちな、自己主張をせず、ただ我慢するという美徳は、人間関係をゆがめるだけだということ。 個々の人間の幸福なくして、全体の幸福などありえない。
また、住宅に関するスタンスは、自らを「流浪人」と位置づける私独自のもので、これが正しいと主張するつもりもなければ、 他の考えを批判する気も毛頭ない。庭付き一戸建が最良とは思っていない人間も居るという端的な例を示しているに過ぎない。 どんな価値観も、互いに受け止め合うことが肝要であり、そのためには、各人が確固たる考えを持つことが必要だ。 そこで大切なのは、よく調べ、学ぶこと。そして後悔のない道に進むことだ。失敗のない人生などあり得ないが、 後悔のない人生を送ることは、自分次第で可能だからだ。
自分の冷静な住宅観を持たずに、風潮に踊らされ、安易に持家志向に走ることの危険性を、当サイトでは繰り返し強調している。2002年7月16日付記