No.35 文系vs理系の構造
いいトシをした大人同士の会話に、何十年も前の学歴の話が出てくる。すると必ず、 私は文系、私は理系、という区分が登場する。今そのような勉強をしているわけではないのに、である。
現役の高校生や大学生なら、今どんな授業を受けているかで分類することには意味があるが、 何十年も前の経験で、自分を一方に分類することの意味は、何だろう。
「私は文系」と言うとき、多くの場合、それは、私は数学が苦手であるということの表明である。 同様に、「私は理系」と言うとき、数学が苦手ではないという意味もあるかもしれないが、文章が書けない、字を知らない という意味の場合もあろう。いずれにせよ、文系、理系という分類が、特定の学問分野を苦手であることの 正当な理由であるかのような使われ方をしている。
単純な二分法的発想や、自分が何かの集団に属するような分類方法を私は好まないので、自分を何系に属するという 言い方は極力しないのだが、どうもこういった分類を好む人が多いので、閉口する。
そもそも教育システムとしても、文理に分けるやり方には問題が多いと思う。 分けること自体が問題なのではなく、例えば文系に分類されると、 理系科目の履修が免除され、あるいは免除されないとしても、評定その他において理系科目の能力が考慮外と されることが問題なのである。 この点、大学などでは文理横断的な教育の重要性も指摘されつつあるようだ。
一般に文系科目には、文章読解力や表現力が要求され、理系科目には、論理的思考力や発想力が要求されると 思われるが、実はこれらの各能力は、根底において通じている。
文字の威力を借り、やたらと理屈をこねくり回すのが文系的と勘違いしている人が多いが、 よい文章とは論理的な文章であるべきで、よい文章を書く能力と、数学的センスとは通底している。よく言われることであるが、 難しい表現を多用した長い文章は質としては低く、優秀な文系出身者の典型である裁判官の書く判決文など、悪文の見本のようなものと言える。
サイト運営者には、自らの意思を簡潔な表現で読者に伝える能力が求められる。当サイトは、私の性格を反映して、 非常にしつこく、回りくどい文章が多い、と自己分析している。これは、文系的能力の欠如であろうか、理系的能力の欠如であろうか。
二分法的表現は嫌いだが、私の目標は、理文系的人間である。論理的思考に下支えされた、エレガントな文章を書きたい。 道は遠いが、そのためにサイトを運営していると言ってもよい。
私が最も問題としたいのは、この国の人々は、自分が何かの集団に属していないと安心できないという精神構造である。 出身地、学歴、職歴、思想信条、はたまた血液型、星座・・・。自分を何かの集団に属せしめることにより、 自己決定という責任を回避しようとしているかに見える。
文系であろうが、理系であろうが、論理的に物事を考えること、自分の意思を的確に表現できることは重要である。
二分法的文脈に逃げ込んで、努力不足を正当化するようなことは慎みたい。
自ら逃げ道を作らない。言い訳をしない。そうやって厳しく自分を追い込むことを楽しんでいる私は、 単にマゾヒスティックな人間なのかもしれないが。
2003年3月19日