No.37 日本に実力主義は定着するか
「今頃そんなことを言っているようではダメだ」という声が聞こえてきそうである。 「既に実力主義社会は到来しているではないか」と。
実のところ、そのような意見を言う人は、真の実力主義というものを理解していないように思う。
私見によれば、この国に真の実力主義が根付くのは相当に困難であり、実現するとしても一世代ほど先、つまり、 30年くらい先になるのではないかと、筆者は考えている。以下、その理由を述べてみよう。
1.実力主義と競争至上主義との混同
実力主義を貫徹するためには、完全なる競争社会が必要だと考える人は多いだろうが、 競争に任せていれば理想的な実力主義社会が達成されるというのは誤りである。 競争至上主義の下では、必ずしも「機会の平等」は必要条件とはならない。 自由競争を容認するならば、平等という幻想は諦めなければならない。それゆえ、不平等で理不尽な競争を強要されることとなる。
競争社会を、「頑張れば報われる社会」だと表現する人があるが、それはまるで逆である。 頑張っても報われないのが、競争社会の現実である。人を出し抜くための財力、 体力、知力などが競争以前に必要であり、それらが備わっていない者は、競争の土俵にすら上れないのだ。
そのような血も涙もない社会をいったいどれだけの人が望み、それに備えているというのか。
競争が完全なる実力主義社会を達成することができるとすれば、少なくとも機会の平等が保障されなくてはならない。 それは、スタート地点を皆同一にするということであって、現状のまま競争に突入することではない。
もし全員のスタート地点を厳密に揃えようと思うのなら、例えば相続税率を100%、つまり相続制度そのものを廃止するような
ドラスティックな改革が必要である。
生まれながらの境遇の違いによる、成功確率の違いは、厳然として存在するからである。
(このアイディアは筆者独自のものではなく、池田[2002]からの借用である→※注1)
2.実力を評価するシステムができていない
多くの企業で年功序列が崩れ、成果主義が導入されていると聞く。それだけを捉えると、実力主義が進行しているように見えるが、 それこそが曲者である。
例えばメーカーの営業マンであれば、売った製品の額だけで成果を判断し、それ以外の要素は全く勘案しないで給与を決定するような システムにすればよい。ところが、日本の企業風土の下では、業務を円滑に進めるための根回し等の"社内営業"も必要であり、 そのようなテクニックを使えない者が、人事考査上不利益を被る場合がしばしばある。
真の成果主義であるならば、和を乱そうが、同僚の成果をずる賢く横取りしようが、結果を出した者だけが評価されるが、 そこまでドライな評価は行われてはいないだろうし、望まれてもいないだろう。所詮、見せかけの成果主義なのだ。 いくら営業成績が良くとも、上司にタテをつく者が左遷される例は後を絶たない。
また、売上数値以外の要因を評価に勘案するとすれば、客観的に評価できる立場の人や、システムが必要となるが、 それも容易ではない。数値に表れない成果を評価するためには、評価者が被評価者よりも高い実力を備えていなければならない。 そもそも人を評価できるほどの実力を有する人間を、人事部門に置くことは、会社として非効率であろう。 また、複数の部下が上司を査定する人気投票のような方法をとる企業もあるが、そんな"おままごと"のような方法で正しい評価ができるとも 思えない。
3.そもそも「実力」とは何かのコンセンサスができていない
筆者のような自由業者であれば、仕事の内容がいかに稚拙であろうが、コネやカネや営業力を駆使して、 売上を上げることは可能である。収入が社会の評価であるとすると、それが実力ということになる。 同様に、企業人の場合も上述のように営業成績のみで給与を決定するという方法がある。 このような評価方法を望む人もあるだろう。
その一方で、仕事の質で評価して欲しいという要望もある。これは実に難しい。
未だに、出る杭は打たれるのが、日本社会である。打たれてしまう程度のものは真の実力ではないのだ とも言えるが、昨今の企業間競争を見ていると、強大な資本力を有するごく少数の企業が市場を牛耳り、 どんなに技術力があろうとも資本力のない企業は生き残れない、という状況が進行しているように思う。 このような状況を容認するのか。そのように他者をねじ伏せる力を「実力」と呼ぶのか。 つまり、実力主義という名の「暴力主義」を我々は望むのか。
実力の定義が曖昧なまま競争社会となると、育つべき芽がすべて摘まれてしまうことになりかねない。
特例なき競争だけが状況を打開するというような市場原理主義の呪縛(※注2)から、我々はそろそろ解放される必要がある。 無制限な競争がもたらすものは、強者と弱者との絶対的な隔絶である。そのようなところに、真の実力主義は成立しない。
まさか従来の日本的横並び意識の延長で、全員が強者(勝者)になれるとでも思っているのだろうか。
競争社会=実力主義社会と思っている人は、人間は生まれながらの能力やチャンスが皆同じであるという平等幻想を信じているのだろう (※注3)。
このような状況が少しでも変わり、この国に実力主義が定着するためには、少なくとも社会の牽引役となる世代が交代しなくてはならないだろう。
2003年4月11日
※注1:池田清彦『他人と深く関わらずに生きるには』新潮社、2002年、145ページ〜155ページ参照。
※注2:競争がすべて善であるとする浅墓な思想は、「聖域なき構造改革」という空虚な呪文から始まったと筆者は考えている。
※注3:人々がいかに平等幻想に犯されており、またそのようなウソが社会にのさばっているかを 述べたものとして、次のような著作がある。
・池田清彦『正しく生きるとはどういうことか』新潮社、1998年
・中島義道『不幸論』PHP新書、2002年
・小浜逸郎『頭はよくならない』洋泉社新書y、2003年