No.40 取引に役立つ鑑定とは?



 Evaluation 第9号(2003年5月15日、プログレス刊)に、 「鑑定評価基準は、無駄・無意味ではないか」と題する 三國仁司氏(日本格付研究所 ストラクチャード・ファイナンス アドバイザー)の文章が掲載されている。その内容は、次のようなものである。

 鑑定評価に求められるのは、実際の取引に役立つことである。鑑定評価基準というものが存在することによって、 それが権威化し、それに従っていさえすれば免責されると鑑定士が考えるようになるのなら、そのような基準はいらないし、 それを維持するギルド的組織も不要である。基準を維持することに意味があるとすれば、鑑定結果の有用性を担保するものでなくてはならない。 しかし、その基準を、社会の変化に対応してタイムリーに改訂してゆくことは、実際問題として不可能と考えられる。評価とは、本来評価者の内なる基準に従って行われるべきものであって、 結果の妥当性で他者と競い合うのがプロというものである。

 上記のように文章を要約してみると、ほぼ反論の余地のない、もっともな内容に思える。しかし、 同文の詳細を見ていくと、鑑定評価に対する誤解や、執筆者の一方的な見方だけが正しいとする一種の横暴さが伺える。

 鑑定結果の有用性を云々する場合には、まず、そのシーンにおいて必要とされているのが、正常価格なのか、 特定価格なのか、あるいは鑑定評価ではなくコンサルティングとして行うべきことなのかを峻別しなくてはならない。 それを曖昧にしたまま、役に立つ、立たないとの議論をすることはできないし、その段階に齟齬があると、 そもそも話がかみ合うわけはない。ここが、まず強調しておきたい所である。

 以下、具体的に指摘してゆく。『 』で囲った太字部分が、原文であり、その下に私の意見を書く。


『不動産の鑑定評価に複数の方法があり、それなりに有用性があるとしたら、単一の方法だけでは 評価額やその価格帯(筆者は、常に「価格帯」で考えている)を決定するには不安がある、 あるいは十分な妥当性が得られるようにはなっていない、ということになろう。すなわち、どのような 方法を用いても一長一短であり、それだけに依存していたのでは決定的なものとして評価額あるいは価格帯を 示すことができないことから、他の方法による補強・補完を行って自らが決定しようとしている評価結果に対して 妥当性を確保するということにならざるを得ないのである。』(同書56ページ)

 鑑定理論を一から勉強した人間とっては常識であるが、鑑定評価に三方式があるのは、不動産以外の財にも共通の 「価格の三面性」(費用性、収益性、市場性)に立脚しているからであり、理論的にはそれらの間に軽重の関係はない。 単一の方法で十分な妥当性が得られないのは、評価基準が未熟だからではなく、それぞれの手法において得られる情報には常に限界があるために、 シーンによって説明力は異なるし、そもそも単一の方法だけでは偏った見方(着眼点が片面的)になってしまうために、 どのような場合にも複数の方向から検討すべきだからである。複数手法存在すること自体が理論の欠陥を表していると言いたいのだとすれば、 それは、鑑定理論をご存知ない方の意見に過ぎないと言わなければならない。一つの手法だけで説得力を持つ結果が得られれば苦労はないが、 そもそも一つの手法は一つの観点からしか見ていない(*1)のだし、オールマイティな手法などは存在しない。昨今のような買い手市場の時代には、 買い手の声が大きくなるので、収益価格万能論が幅をきかせるが、この風潮は一過性のものであって、絶対に惑わされてはならないと 私は考えている。


『結論をいえば、そのような基準は無駄であり無意味であろう。
  (中略)
・それに従ってさえいれば、役立たなくとも免責されると評価者は考えるようになるだろうし、
・権威に逆らってまで現状を変えよう、進歩させていこうという考えが評価者から失われがちとなってしまう。
  (中略)
 不動産鑑定士個々人の鑑定評価方法に対する切磋琢磨と結果の有用性を確保していこうとする危機意識があれば、 評価基準など不要だと、筆者は考えている。』(同書56ページ)

 鑑定評価に課せられた使命を果たせないのに、基準にさえ従っていれば免責されるなどと考えている鑑定士がもしいたとすれば、 鑑定士と名乗る資格などない。ただ、鑑定評価の使命とは、正常価格に限って言うと、 例えば特定の投資家の側だけに偏った、彼の眼鏡にだけ適う価格を出すことではないし、 それが出ないからといって、役立たずと非難されるいわれはない。
 また私は、鑑定評価基準は最低限のルールであって、運用上は常に批判的に見るべきであり、 工夫を凝らしてゆく必要があると考えている。ただ、法律に縛られている資格者としては、 基準に違反すると不当鑑定として責任追求されることから、最低限のルールとして守らなくてはならない。 その意味では、基準の存在は一種の足かせかもしれない。だが、それは絶対に権威ではないし、そこを足がかりにして 各自技術を磨くことを禁止しているわけでももちろんない。常に進歩させようという向上心がないとすれば、 それは基準の存在が悪いのではなく、その鑑定士個人の資質の問題であろう。
 基準が、鑑定士の行為限界を規定するようなものであれば害もあろうというものだが、最低限守るべきルールや指針だと捉えれば、 そこから先の個々の技術こそが、社会に評価される物差しとなろう。


『たとえば、裁判所が最低競落価格を決めても(※)、高すぎるとして落札者が現れなかったとすると、 それは「最低」競落価格ではなかったことになる。もし、その価格が鑑定評価基準なるものを忠実に踏襲した結果だったとしたら、 それは実際には取引をすることができない「異常」価格を示したことになる。』
※『最低競落価格ということは、これ自体がすでにピンポイントの価格を否定していることになる。』(同書57ページ及び59ページ注釈)

 まず、最低売却価額(最低競落価格ではない(*2))に対する誤解があると思われる。それは、 その時の入札者に実際に落とされるであろう最低の価格に関する予想ではない。 債権者の権利を最低限保全するために設定される下限であるから、市場が冷え込んでいる時には、 それを上回る札を入れる者が全く現れないこともあり得る。 そのような最低価格の設定など要らないとの意見もあるだろうが、自由競争に任せた結果、 たまたまその時は、市場価格の一割でしか落とされないというような事態が起こり、 その事件の債権者が不当に利益を侵害されたとしても、「時期が悪かった、運が悪かった」で片づけてしまって良いというのか。 市場が決めたのだからそれが正解で、仕方ないことだ、というような市場原理主義は、断じて間違っていると私は思う。
 最低売却価額は正常価格ではないから、most probable selling price(最尤売却価格)を示すものではないし、 予想価格帯の下限を示すものでもない。 また、一般の鑑定評価においても、ピンポイントの価格を出しているからといって、 それが唯一の正しい価格であるという宣言ではなく、価格帯という確率分布の期待値であると私は考えている。 少なくとも私が鑑定評価を行う時には、価格関数を推定し、分布の姿を捉えることに神経を注いでいる。 だから、価格帯で示す鑑定評価も認めるように基準を変えるべきだとかねがね考えている。


『競売は特殊な取引かもしれないが、実際に売買されれば、それは「正常」取引であり、 その価格は「正常」価格ということになる。』(同書57ページ)

 実際に売買されれば、それがすべて正しいとする市場原理主義に走るならば、 鑑定はただ現象の後追いをしていればよいということになる。この論理で行くと、バブル期の投機的取引も、 現在のような負のバブル下における買い叩き現象も、すべて「正常」な取引であり、 その現状を忠実にトレースしない鑑定は役立たずということになってしまう。 市場の状況がどんなに異常であってもそれを忠実に捉えたものが「正常価格」だとする思想には、賛成できない。 もちろん鑑定評価は市場代行機能とも言われるように、市場を離れた理想論を展開することは無意味であり、 慎まなければならないが、かといって、短期的な異常な値動きまですべて肯定するのが正解ではないと思う。 だからこそ鑑定評価には、マクロ経済における不動産の位置づけを時系列で、そして空間の広がりの中で分析することが必要なのだ。
 今回の鑑定評価基準の改正(2003年1月施行)で、正常価格の解釈が、「あるべき価格」ではなく「ある価格」なのだと 言われているが、私は、この説明は説明になっていないと思う。実際そこにあれば、すべて正しいのか。 もし、そこにある価格だけを抽出すればよいのなら、コンピュータにやらせればいいのである。 そもそも基準総論第1章にある「適正なあり所を指摘する」という表現と矛盾するではないか。


『評価基準からすれば異常価格であっても、それを説明できる要素や要因があるとしたら (たとえば、用途変更)、取引実績としてはなんら異常ではないことになる。また、たとえその異常性を説明できないとしても、 異常な価格での取引が繰り返されたとしたら、それはもはや異常とは言えなくなる。』(同書57ページ)

 用途変更など、説明できる要因があるのに、それを捉えていないとしたら、不当鑑定である。 基準が、用途変更を捉えることを禁止しているわけがない。 但し、その用途変更等が、一過性の特別な事情があり、特殊な動機に基づくようなものである場合、 その現象をすべて肯定して求めたものは正常価格ではない。「オレがこうやって使うんだから、それに従って価格を出せ」という要望に、 鑑定評価としては応えられない。それはコンサルとして、その人だけの価格を出してあげればよい。
 異常な価格が繰り返され、市場参加者の間でコンセンサスが得られる段階になれば、それはもはや異常ではない。 その解釈には賛成である。それが市場の構造変化なのであり、そのような変化をマクロ的に捉えることは、 鑑定評価に課せられた使命であると思う。


『したがって、統計的な手法や数学的な根拠付けは、相対的に妥当性が高いということを 説明するための手段に止まるだろう。特に、人的な要素が絡んでくるソフト面の評価−プロパティマネジメントの重要性と その業者としての業務能力とその継続性に対する評価−が加わってくると、もはや数学的な根拠付けだけでは 鑑定結果に対する妥当性を確保することはできなくなってくるだろう。』(同書58ページ)

 もちろん、どんな評価であっても統計的な手法が、ダイレクトに正しい答えを導いてくれるわけはない。 私は、いつも数学的な裏付けというものを特に重視しているが、それは、専門家としての説明責任を果たすための一手段としてである。 統計手法を適用しただけで、妥当な結果が得られるなどと思っているとしたら、その人は統計学を知らない人である。
 ただ、人的要素が絡むものであっても、適当なデータ数さえあれば、統計処理は有用となる。 人間の行うことや自然の営みは統計では扱えないというのなら、例えば医学は成立しなくなる。 この症状はこの病原体が起こしている可能性が高い、という所まで、症例に基づく分析でたどり着くことができ、 そこから先の医療行為は、プロとしての医師の技量にかかっている。つまり、統計分析のようなものは、 初めから結果の有用性を担保するようなものではないのだ。このあたりの誤解は、むしろ鑑定業界の内部にこそ多いので、 ここで強調しておきたい。

『統計的な手法や数理分析を用いて結果の妥当性を確保していくとしたら、 特に収益還元価格を算出する場合の割引率を決定するに際しては、投資家の個別性を考慮する必要がなくなってくる。 不特定多数の投資家を考慮していればよいのであって、個々の投資家の資金調達とそのコストなるものを考慮する必要は なくなってしまう。』(同書58ページ)

 正常価格や特定価格としての鑑定価格を求める場合には、そもそもその物件に投資しようとしている特定の投資家の個別性は、 それが典型的なものでない限り、考慮してはならない。ここはぜひ強調しておきたいが、そのようなものは、鑑定ではない。 その投資家だけに妥当する価格が欲しければ、それはコンサル(投資分析)として出すしかない。 正常価格も特定価格も、一般的な投資家像を前提とするものであり、前者は一般的な投資家が市場に参加し、多くの他者と競争する結果成立する 均衡価格であり、後者は、一般的な投資家の側から見た投資採算価格(需要者の留保価格)である。
 なお、統計的手法によって、個々の投資家の個別性を反映させた結果を推定することも可能である。統計というと、算術平均値的なものしか 思い浮かべられない人も多いようだが、例えばヘドニック・アプローチによって関数を推定する場合、 独立変数はいくらでも採用できるから、特定の投資家の持つ個別性に即した数値を導出することは可能である。 また、定性的な要因についても、数量化理論で扱うことができる。そのように多数の要因を選択すれば、 それぞれの要因の持つ限界評価額を導くことができる。統計とは、平均値を出すことではないのだ。


『ピンポイントの価格呈示を基準が求めているとしたら、そして、 不特定多数の投資家の資金調達力を考慮するようにと基準が求めているとしたら、 両者は互いに矛盾することになる。』(同書59ページ)

 両者がなぜ矛盾することになるのか、逆に私にはわからない。 失礼ながら執筆者には統計学や確率論に対するご理解がないようにも感じられる。
 不特定多数の投資家の資金調達力を考慮して評価するとは、その市場における典型的な投資家像をあぶり出し、 その条件における価格関数を推定し、確率分布を描くことである。 ピンポイントの価格呈示とは、その確率分布における期待値を示すことである。 それは、無論、幅で結果表示できるけれども、 現行基準では分布の期待値に近いものとしてピンポイントの価格を示せと言っているに過ぎない。私はそう解釈している。 だから、既述の通り、鑑定評価基準でも価格帯表示の鑑定評価を認めるべきだと考えている。
 繰り返すが、ある特定の投資家の条件を前提として価格を求めて欲しいというニーズがあるのなら、 我々はそれにコンサル(投資分析)として応えなければならない。鑑定士は、基準というルールに縛られて、行動を限定してはならないのであって、 社会のニーズに応えるためには、従来の鑑定にだけこだわっていてはいけない。
 一方、「鑑定評価」は、特定の依頼者に気に入られようとして、妥協をしてはならない。 特殊な取引を説明できなかったからといって、その有用性を否定されるものでもないし、 特殊な取引を追認する役割を担ってはいけないのである。

2003年5月27日


*1:鑑定評価基準における各評価手法の解釈として、『要説不動産鑑定評価基準』(鑑定評価理論研究会編、住宅新報社、2003年) にも書かれているが、『実際には一つの評価手法には三つの方式による価格の捉え方が複合的に組み合わされており、(中略) 試算価格は三つ集まってはじめて一つの機能を果たすのではなく、どれもが独立して対象不動産の正常価格を指向するものとして 取り扱われる。』(同書230ページ)というものがある。後段の説明はその通りだと思うが、一つの評価手法に三つの方式による価格の捉え方が 複合的に組み合わされているという解釈には、私は釈然としない。それでは、その手法で一体何の数字を出しているのかが曖昧になる。
 各方式がその着眼点に特化したからといって、それぞれが不十分な手法だと いうことにはならない。供給者の売り希望価格が、需要者の買い希望価格よりも高いのが普通なのであって、鑑定評価もその市場の取引実態(但し、短期的な異常要因は除く) を忠実にトレースすればよいのだと思う。そのために試算価格の調整はあるのだし、鑑定士の存在意義もあるのだと考えている。

*2:民事執行法第60条。執行裁判所が競売に付す際に設定する最低の価格なのであって、 競落されるであろう予測値の最低限を示すようなものではない。"最低競落価格"なる語は、敢えてそのような誤解を助長するものであろう。