No.48 もっと信頼される鑑定評価のために
No.47で取り上げたように、良くも悪くも我々不動産鑑定士に対して、マスコミその他から様々な意見や批判が目立つようになってきた。
国の経済や金融システムが変革を遂げるのに伴い、あらゆる分野でこれまでの常識をあらためる必要に迫られており、それは我々のような"資格商売"においても 例外ではない。
本稿では、世の批判や期待に応えるために我々不動産鑑定士が意識すべきことを、私なりに自戒の意味も込めて述べてみたい。
1.情報の大切さを再認識する
鑑定評価を遂行するための血液と言えるのが、情報である。いくら崇高な理念や、高い技術力を誇っていたとしても、 情報がなければ、我々は仕事をすることができない。これは自明のことであるが、近年ほど情報の大切さが各分野で主張されている時代はない。 このことは、日本も物作り主導、科学技術最優先の成長時代が曲がり角を迎えたことと大きな関係がある。
No.46で取り上げた不動産取引価格情報の公開は、情報の共有化を進めることによって、不動産市場の透明性を増進させようとするものであって、 大いに歓迎すべきことである。今回、法制化が見送られてしまったことは、非常に残念である。今後に期待したい。
私がこのサイトでの主要なテーマに据えている鑑定評価と金融理論の融合も、それに投入する情報がなければ、ほとんど目的を達することができない(※注1)。
専門家としての高度な判断が問われる場合でも、その判断根拠となった情報を示す必要がある。取引価格情報のみならず、賃料や投資利回りに関する情報などが整ってこそ、 分析力も発揮できる。これらの情報整備を必ずしも自ら行う必要はないと考えるが(※注2)、情報は偏在させるのではなく、行き渡ってこそ意味があるという ことを、あらためて認識すべきだ。
2.経験主義に偏りすぎない、理論偏重に陥らない
どんな技術も経験の積み重ねによって熟練する。その意味で、何事も経験してみることは重要であり、机上の空論は慎むべきである。 しかし、経験ばかりを強調し、考える前に行動せよとする思想に陥ってはならない。
例えば「株を買ったこともない人間に、株式市場の分析などできない」
という類の意見を聞くことがあるが、私はそうは思わない。不動産に置き換えれば「不動産を動かしたこともない人間に、鑑定評価などできない」と
なるのだろうが、このような悪しき経験主義は、"経験者"が自らの立場を有利にしたいだけの宣伝に過ぎないと私は思っている(※注3)。
まさか、「人を殺したこともない人間に、推理小説など書けない」とはおっしゃいませんよね?と言っておこう。
一方、だからといって経験など要らないということではない。考えることによって行動を決め、行動によって考えを進化させる。
理論と実践の調和が、最も大切である。形而上学的な理念は必要であるとしても、それだけで終わってしまったら、経済社会での信任は得られない。
3.収益価格至上主義への訣別
「不動産は、ようやく本来あるべき姿、すなわち実需中心の市場になりつつあり、今後あらゆる不動産の価格は、 収益価格で決定されるようになる」というのが、いわゆる識者の常識であるらしい。しかし、私はまったく同意しかねる。
このような発言をする方には、収益還元法を本当にわかっていますか?と問いたい。
金銭で表現できるもの、できないものを問わず、不動産のもたらすあらゆる「効用」が不動産の価値を決めているというのであれば、 全く正しい。ただし、「効用」の中には、「収益」として金銭換算できるものもあれば、取引不可能な「心的満足度」もある。 価値とは、これらのすべてが合わさって出来上がっている。
収益還元法は、単に金銭換算できる「収益」だけを問題としている。従って、不動産から得られる効用のすべてが、 「収益」という金銭で表現できる場合のみ、収益価格が正しい価値を表示できることになる。
不動産価値の本質を形成している「効用」を分析し、それが「収益」にどう反映されているのか、 その不動産は「収益」以外の「効用」が価格を形成していないか。そこを分析することが重要となる。単に収益還元法の精度を向上する技術など、 一時代前のトピックであると申し上げておく。
4.鑑定評価は経済分析であると心得る
価格とは、取引の結果である。その結果の表れる現場=市場を表面的に見ているだけでは、メカニズムはわからない。 「不動産取引の現場も知らずして、不動産価格を語るなかれ」との意見があるが、現場を知ったくらいで的確な評価が出来るのならば、 苦労はない。
不動産価格は、価格形成要因の束で出来上がっているから、その一つ一つを分析し、何が不動産価格を動かしているのかを捉えることが、 鑑定評価であると言える。つまり、鑑定評価とは、経済を分析する行為なのだ。
現象論に捕らわれる暇があったら、様々な経済指標と不動産価格の形成要因との間にある相関関係を研究する努力をすべきであると思う。 それこそが鑑定士の存在意義であると、私は考えている。
鑑定士は、売買価格の予想屋ではない。鑑定評価にとって予測は必要条件ではあるが、目的ではない。 結果としていくらで売買しようが、当事者の勝手である。 「価格は市場が決めるから、鑑定はいらない」という言説は、 鑑定の目的を売買価格の予想であると捉えている点において、既にしてピントがずれている。
5.鑑定評価基準は足かせではなく、足場に過ぎない
我々不動産鑑定士が鑑定評価を行う上で、鑑定評価基準(以下、基準という)に従わなくてはならないのは、言うまでもない。 しかし、基準に従ってさえいれば免責されるなどと考えているようでは、鑑定士としての職責を果たしていない。 基準とは、最低限守るべきガイドラインではあっても、それがベストの結果を保証するようなものではないからである。
また、我々鑑定士は基準の足かせがあるから、それ以上のことが出来ない、という声を聞くこともあるが、 その捉え方は間違っていると私は思う。
正しい評価額を導くことが、鑑定評価の目的なのである。基準は、そのための足場であって、基準に従った上で、 更にその先どう分析力を発揮するか。基準に不備があれば、それを補う技術をどうやって開発するか。 その努力なくして、専門家とは言えないであろう。
6.一時の風潮に惑わされない信念や倫理観を持つこと
経済は生き物である。バブルもあれば、大不況もある。地価や株価は、それらに翻弄されるように変動する。
市場価格が一時的に高騰すれば、鑑定評価額は低すぎると言われ、過度に下ぶれしている時期には、 鑑定評価額は高すぎると言われる。確かに、柔軟に追随できていない面もあるかもしれない。しかし、そこで大事なのは、 いったい鑑定評価とは何かという思想を持つことではないか。
どんなに異常な市場でも、現象として表れたものがすべて正しいとする立場を取るなら、バブル現象などもすべて容認し、 それに追随した価格を出すべきであるし、現象に振り回されず、市場を先導する役割を果たしたいと思うのならば、 市場価格に厳密に追随していないといった批判に対しても、毅然とした態度で自らの分析結果を、自信を持って主張すべきである。 どんな職業でも、激動の時代に最も大切なのは、風潮に流されない信念や、職業倫理ではないだろうか(※注4)。
7.積極的に情報発信すること
なんと不動産鑑定士とは、言われっぱなしの種族なのだろう。最近つくづくそう思う。
経済が弱体化している近年は、足の引っ張り合いが横行している。少しでも突けるところは突いておいて、 仕事を奪ってやろう。そういう思惑が社会に渦巻いていると言っていい(※注5)。
無論、我々自身、反省すべき点や、もっと努力すべき点はたくさんある。しかし、それを言い出したら、 どんな業界にも、改善すべき問題点はあるのだ。
このような風潮の世の中では、沈黙を守るということは、最もしてはならないことである。 不当な批判を受けて黙っているのは、それを認めたこととみなされてしまう。 「いちいち相手にしていると、こちらのレベルも下げることになる」などと言って、 論争を避けるのは紳士的かもしれないが、いまや誠実な紳士はすべてを奪われ、捨てられるだけだ。 そういう弱肉強食社会が到来しているのだ。
黙っていてはいけない。とにかく考えを発信したい。私がこのサイトを立ち上げた最大の理由は、そこにある。
2004年3月21日
※注1: どんなに立派な箱(しくみ)を作っても、投入する材料(情報)がなければ、何も生まれない。 新手の評価技術を開発するだけでは、机上の空論である。しかしながら、「実証分析もできていないのに、 不動産金融工学の技術論だけ展開しても意味がない」という類の発言も、誤りである。 技術が発展してこそ、何が必要な情報かも見えてくるから、まずは箱を作ることも大切なのである。
※注2: 情報が大切だという話をすると、自分の足で情報を集める努力が必要だという所に結びつけてしまう人がいる。 確かに自分で集めてみることによって、何が本当に必要かが見えてくるから、少なくともその努力は必要だろう。 しかし、歩き回って情報を収集してこそ一人前などとする現場第一主義には賛同できない。 お金で買える情報なら、買って済ませるべきなのである。
自分で集めたことを自慢したい人は、しばしばその数少ない情報に、過度の信頼を置くきらいがある。 『鬼の首を取ったように取引事例を決定打にする人々にたまに会う』と、私の同好の士である小林秀二氏は書いたが、 まったく同感である(「不動産ファイナンス初級・第2回」リアルエステート・マネジメント・ジャーナル2004年2月号 75ページ参照)。
そもそも自分で集めないと気が済まない人は、 "情報収集屋"になればいいのであって、少なくとも私は、"情報分析屋"でありたいと思う。 だから無駄に歩き回らないで情報を得る術をこそ身につけたい。情報の収集と整備は、組織として取り組むべき大きな課題である。※注3: 確かに鑑定業界に入りたての頃は、それまで不動産関連業界の経験があるかないかで、 仕事の飲み込み度合いに差がある。しかしそれは、あくまで新人の話であって、 そんなレベルで鑑定評価の的確さに差が出るとは私には思えない。私自身、社会人の最初から、 いや学生時代のアルバイトの頃から、ずっと不動産畑の人間だが、そんなことを売りにしたくもないし、 そんなレベルで仕事をしたくないと思っている。
※注4: しばしば行政隷属と言われるのが我々鑑定士だが、自分たちの信念もなく、 ただ言われるがままに仕事をこなしているのだとしたら、隷属と誹られても仕方ない。 しかし、私の身の回りの人たちを見る限り、行政発注の仕事でも、 価格のあり方についてとても真摯に議論を闘わせているし、努力は怠っていないと思う。 もし、行政発注のように報酬の安い仕事など適当にやればいいのだ、と考える鑑定士がいるのならば、 即刻辞退すべきである。反対に、自分の仕事に自信を持っているのであれば、 雑音に惑わされる必要などないのである。
"公示価格の破綻"などという下品な煽りにおたおたしているようでは、日頃の努力が足りないというべきであろう。※注5: もちろん互いに至らない部分を指摘しあって能力の向上を図るのは大切なことであるし、 自浄作用の働かない組織は自己崩壊を免れないであろう。 その意味で、健全な内部告発や、同業者間及び業種間の競争は必要である。
しかし、節操なく他者を攻撃したり、業界をおとしめようとする者は、自分は別の安全なところに居り、 攻撃することで自分に何らかの利益がもたらされるがために、盛んに批判を展開していることが多い。 少なくともそんな下品な人間にはなりたくない、というのが私の美学である。
他業界や同業他社を口汚く批判し、悦に入る暇があったら、自己反省して努力を怠らない専門職業人でありたいと思う。