No.50 競争社会と排他思想
米国型競争社会への転換が急速に進行している。
しかしながら、これがうまくゆくための下地がこの国には十分に整ってはいないという危機感が筆者にはある。 この点に関しては、No.37「日本に実力主義は定着するか」において、 実力主義と競争至上主義の混同という観点から詳しく記したが、競争社会は決してフェアネスを保証するようなものではなく、 むしろ不平等、不均衡を助長するものであると思う。
本稿は、昨今自由競争の名の下に蔓延している「排他思想」に対して、いささかなりとも警鐘を鳴らすことを目的としている。
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『バカの壁』(養老孟司、新潮新書、2003年)という本が、今なお売れている。
このベストセラーを最初に読んで私が感じたのは、 「なんで今さらこんな当たり前のことを主張しなくてはならないのか」ということだった。 「話せばわかる」というセリフが大嘘であることは、とっくの昔からわかっているはずである。 話したってわかりあえないことのほうが、人間関係においてははるかに多い。
知りたくないことに対しては、人間は聞く耳を持たない(それを、バカの壁と呼んでいる)ということを鋭く指摘したのが、 この本の最大の功績だと思うが、これがウケた背景には、昨今、自分の主張が人に聞き入れられない、世間に受け入れられない という焦りというか諦めを、多くの人が感じているからではないか。
競争社会を標榜し、表向きは機会均等と言われているが、実際には、機会すら与えられない人が多い。 その結果、理不尽な格差(社会的、経済的、身分的格差)がどんどん拡大してゆく。政治は庶民の方を向いている振りをしながら、 その実、庶民などに目もくれていない。所詮、何を言っても無駄なのだ。こんな空気が蔓延している。
ここでひとつ大きく危惧するのは、「バカの壁」という言葉が一人歩きし、都合のいいように使われているということである。
つまり、時の権力者など(すなわち体制側)が発言したことに対し、少しでも異を唱えようものなら、 「あの人はわかっていない。バカの壁だ」と、異質なものを排除するために引用されるようなことがある。
競争社会で勝ち残れない人が、手っ取り早くその存在の有益性を主張する安易な方法は、 体制の側に寄りかかることである。そうして社会は全体主義的色彩を帯びるようになる。
著者・養老氏の最大の罪は、「バカ=思考停止」の要因は一元論にあって、これを克服するためには、 二元論で物事を捉えるべしという考えを提示したところにある。一神教と多神教との違いになぞらえて説明されているが、 ちょっとわかりずらい。著者は、一元論が原理主義を招来するとの認識のもとに、一元論の思考停止状態に陥ってはならないと主張する。 その意図には大いに共感するが、解決策として二元論を提示しているのは大きな誤りである。
そもそも、二元論(二項対立)ほど危険なものはないのである。一元論の段階では、自己の信ずるもの以外の世界が見えていないが、 そこに二項対立概念が入ることによって、世界を2つに分ける壁(バカの壁)が発生する(*1)。
良いか悪いか。正しいか正しくないか。白か黒か。世の中はそんなに単純ではない。 白・黒よりも、世の中にはグレーが圧倒的に多いということを認めることが大切である。
健全な実力主義社会を築くためには、皆に均等な機会が与えられるようなしくみを作ること(*2)と、 社会には様々な立場があり、様々な意見があるということを、皆が許容しあうことが必要であろう。
そのためには、二元論を否定するところから始めなくてはならない。良い/悪いではなく、 あちらにもこちらにも良いところはある。それを認め合うことができない社会では、 決して健全な競争などできない。
狭量で不寛容な発言が目立つばかりか、それが支持される風潮(*3)を見ていると、競争の弊害ばかりが出ているように思える。 「バカの壁」はコミュニケーションが成り立たないことの言い訳に使うのではなく、 打破すべき象徴として捉えるべきである。我々は、今こそ競争至上主義の呪縛から解き放たれなくてはならないと思う。
「昨今は思考が硬直している」という養老氏の警鐘を、いったいどれだけの人が受け止めているだろうか。 売れているようだから自分も読まなくちゃ、などという動機だとしたら、セカチュー(*4) ブームと大差ないではないか。
2004年6月6日
*1:二元論を超克せよというメッセージは、ポスト構造主義の旗手・浅田彰の名著『構造と力』を引くまでもなく、 哲学及び心理学の世界では、従来から大きなテーマである。
*2:これは事実上不可能である。全員のスタートラインを全く同じにしないとフェアではないが、 それをしようと思えば、相続財産をすべて剥奪するというような、私有財産制の根幹から変革しなければならないような話になる。 それを望む人などほとんどいないだろう。結局、平等を標榜する多くの人は、本当に皆が同じになることを願っているのではなく、 自分だけが遅れることを許せないだけなのだ。そういう、人間の欲望の本質を素直に見つめ直して、 それを超克する努力から始めるしかないのである。
*3:例えば最近わき起こった「自己責任論」は、不公正で理不尽な競争に放り込まれて行き場を失った大衆が、 手頃なスケープゴートを見つけ出して自己救済を試みた現象に過ぎないと、私は思っている。誰もが皆、被害者なのである。
*4:片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』小学館、2001年
ちなみに、最近の「バカ」をめぐる著作のなかで私がお勧めするのは、次の3冊である。
勢古浩爾『まれに見るバカ』洋泉社新書Y、2002年
小浜逸郎『やっぱりバカが増えている』洋泉社新書Y、2003年
小浜逸郎『頭はよくならない』洋泉社新書Y、2003年
なお、バカの壁に便乗するように出された『常識の壁』(菊池哲郎、中公新書ラクレ、2004年)も着想自体は面白く、 共感するところも多いが、ただ引っかき回しただけで結論として何が言いたいのかわからず、 そのわりにけっこう浪花節で鼻白む。