No.56 私が個人事務所にこだわる理由
私は、個人で鑑定事務所をやっている。事務所には、妻以外に従業員はいない。事務所を経営しているというよりも、 私は、一人の不動産鑑定士として生きている、と言った方がぴったりくる。
他業種の方にはあまり知られていないかもしれないが、不動産鑑定士は法律上、以前から株式会社、有限会社などの営利法人の形態で 事務所を営むことが認められている(*1)。たくさんの従業員を抱えて文字通り「会社」として運営されている所も多いが、 たとえ一人でも、法人形態にしている事務所も少なくない。
時々、次のような質問や助言を、私に投げかけてくる人がいる。ほとんどが同業の方だが。
(1) なぜ人を雇わないのか。バイトやパートに雑用を任せるだけでも、随分楽になるし、売上も拡大できるのに。
(2) 次世代の若手を育て、自分の技術を伝承してゆくことも考えた方がいいのではないか。
(3) たとえ一人でも、法人化した方が、税制上のメリットを受けることができるのに。
(4) 一人ではこなせる仕事に限界があるし、だいたい、いつも忙しくて仕方ないでしょう。
(5) 個人事務所では、つきあえるクライアントにも限界があるでしょう。
その都度、いちいちお答えするのも面倒くさいし、言い方によっては相手を批判しているようにも聞こえてしまうので、 ここで私の本音を書き綴ってみたい。
No.29のコラムに詳しく書いたが、私には、金儲けをしたいという欲望がまったくない。
事務を効率よくこなすために、安い労働力を雇って、自分を身軽にして商売に精を出そうという気持ちもない。
雑用も含めて、すべてが私の仕事であるし、すべてのことに全力でぶつかるワークスタイル以外に、
プロフェッショナルとしてのあり方はないと思っている。人をうまく使って売上を拡大し、自分の取り分が増えても、
私は少しもうれしくない。
こんな私の主張に対して、それはきれいごとだと一蹴する人もあるだろう。
生きるためにはお金が必要だ。まして家族がいればなおさら、現実はきれいごとでは済まされないと。
もちろん私とて、生活が困窮するような事態は避けたいが、たとえ困窮するようなことがあっても、
本業では一切妥協するつもりはない。他で生活費を稼ぐことくらい、いつだってできる。
そのくらいの覚悟はある(*2)。
人を雇うことは、その人の人生を背負うことである。全身全霊で従業員の幸せを思い、それを実行することである。
たとえ経営者が食べるのに困ったとしても、
従業員には給料を払わなくてはならない。その責任の重さを思うと、安易に事業拡大して、
業績が悪化したらリストラして立て直せばいいと簡単に考えているような大企業みたいなマネを、
決してやってはいけないと思う。それは、社会に対する背信行為である。
大幅に首切りを実行した結果、過去最大の利益を上げたとうそぶく経営者や、それを賛美するエコノミストみたいな、
冷血な人間にだけはなりたくないと思う。
(2)について。
私はまだ業界ではどちらかといえば若いほう(平均年齢の高い業界なので)だが、次の世代を育てることの大切さは、
十分認識しているつもりだ。その意味で、この助言は重く受け止めなくてはいけない。
自分がこれまで諸先輩から教えられ、また自ら培ってきた技術を伝えてゆくことも必要だ。しかし、
その方法は、従業員として後輩を雇い入れることだけとは限らない。
私は、このサイトで自分の研究成果などを公開してきた。そのことについて、
「無償でノウハウを提供するのはもったいない」とありがたい助言をくださる方もいる。
私の思いは、こんなことを考えている鑑定士もいると、業界内外にアピールするとともに、
不動産や鑑定評価に関して、世間で誤った情報が流れていることに対して、きっぱりと反論することによって、
1本のカンフル剤にでもなれればうれしいということである。
さらに、わずかなりとも後輩たちに影響を与えることができれば、光栄である。このスタイルは、ずっと続けてゆくつもりだ。
(3)について。
法人を作るということは、新しい人格を作るということである。
資格者という個人以外に、経営主体として別の人格を作ることについては、
現在の法律がそれを認めているとはいうものの、国家資格業には好ましくないというのが、私の考え方である。
すべての仕事に心血を注ぎ、誇りある仕事をしたいという意志を明確に表示するためには、
私一人が無限責任を負う形態が最も望ましいと考えている。もちろん、法人化されている事務所では責任が分散されているなどと
言うつもりはない。皆、このような思いでプロの仕事を志向されているはずである。
しかし、営利法人の本来の目的は文字通り「営利活動」である。
金儲けの匂いのする株式会社、有限会社などと称することは、単に私の趣味に合わないのである。
もっとも、法律上の独占業務である鑑定評価以外の業務に関しては、法人を作ったほうがいい場合もあるかもしれない。
個人事務所との並立という形で法人を作ることには、一考の余地がある。
(4)について。
一人の人間のこなせる業務量には限界がある。だから、一人事務所の売上にも自ずと限界がある。 私は仕事でも色んな所に行くが、仕事以外でも様々なグループなどに所属し、活動している。曜日ももちろん関係ないし、 常にすべきことが山積している。サイトの運営も、今や仕事みたいなものだ。子供がまだ親と一緒に行動してくれる年齢なので、 休みが取れれば家族で遊びにも行く。 やりたいことがたくさんありすぎて、自分が3人くらいいればいいのに、と思うこともある。 でも、この状況こそ私が望んだ生き方だ(*3)。好奇心には限界がないのである。
(5)について。
最近の鑑定業界でのビジネスのキーワードは、「迅速」、「大量」、「安価」だそうだが
(この点に関しては、No.36のコラムをご参照)、
私はそういう風潮には真っ向から反対の立場を取っている。
仕事を迅速、大量、安価に処理できる事務所でないと、最先端の仕事の受注などできない(*4)というのが常識のようだが、
もしそうだとするなら、「最先端」の仕事などこちらから願い下げである。
もちろん、大きな仕事の受け皿としてグループを作ることを否定はしないし、実際、私もいくつかのグループの立ち上げに参画してもいる。
ただ、そこで行われることが、"大量な事務処理"に過ぎず、所詮金儲け手段でしかないのであれば、私には興味はない。
迅速、大量、安価にできる仕事というのは、所詮「その程度の仕事」なのであり、質の高い仕事に対しては、
それ相応の報酬が払われてしかるべきだ。今の世の中、そんな独りよがりは通用しないよ、と言われることは承知しているが、
安ければいい、早ければいいというクライアントとは、私はお付き合いするつもりはない。どうぞ吉野家に行ってください。
ビジネスにおいてたった一つ私が持っている目標は、自分の単価を上げることである。薄利多売はしない。
その時間を、質の向上に充てる。常に他人のしない方法論を模索する。通常の鑑定でも、取引事例
などの事例資料を可能な限り大量に集め、
価格形成要因を統計解析して説得力のある評価を心がける。
例えば賃貸の募集事例なら、最低でも100以上くらい集めないと、お話にならないだろう。
収益物件ならば、粗利回りデータでもいいからリスク・リターン分析をしてみる。
マクロ経済データや人口動態などを時系列的に分析して、可能な限り客観的な将来予測を試みる。もちろん時間はかかるが、
そういう努力なしに、良い仕事は出来ない。
「そんなこざかしい鑑定士は要らない。こっちの要求したとおりに鑑定書を書いてくれればそれでいい」
と言うような先とは、一切関わるつもりはない(*5)。プロとして技量を磨くことが、結果として依頼者の利益にもつながると信じているからだ。
ありがたいことに、この姿勢を評価してくださるクライアントがいる。そういう方々のために、
全力で応えるのが私の仕事であり、こんなに偏屈な鑑定士でも生きて行けるということを、自ら実証するのが私の役目だと思っている。
2005年10月13日
*1:近年、弁護士、税理士、司法書士なども法人化が認められるようになったが、 社員は資格者に限るなどの制約がある。当然のことだろう。 資格者以外でも社員や役員になれる普通の営利法人として事務所を営むことは、 鑑定士には認められているとはいえ、私はそういう形態を好ましいとは思わない。
*2:私は、自分のわがままを貫き通すために、いざとなったらコンビニでレジ打ちをしてでも、 生活を支える覚悟があると、家族に宣言している。おかげさまで、今までそんな事態には陥っていないし、 趣味のワインも好きなだけ飲ませていただいている。ありがたいことである。
*3:よく、「毎日仕事に追われて忙しい」「そもそも鑑定の仕事なんてつまらない」という声を聞くことがあるが、 つまらないならさっさとやめて、転職でもすればいいのに、と思う。自営をしているのなら、決断次第で自分の仕事を面白くすることは、 いくらでも可能である。楽しい仕事ならば、忙しければ忙しいほど、わくわくするはずだ。私は、昔ながらの「仕事人間」では決してないが、 仕事も趣味もすべてが人生を構成しているのだから、すべてに全力投球し、楽しみたい。単にそういう志向だ。
*4:こんな世の中になると、もう個人事務所は生き残れないという悲観論が蔓延しているようだが、 私はこういう軽薄な風潮がどんどん進めばいいと思っている。安物がはびこるほど、 丁寧な仕事が際立つからだ。もちろん安売りスーパーにも存在意義はあるが、安売りに邁進して財をなし、 成功者と呼ばれてほくそ笑むような趣味は、私にはない。
*5:偉そうなことばかり言うな、とお叱りを受けるかもしれない。が、そういう人と私は、住む世界が違うのだ。 議論にもならないし、議論をするつもりもない。