No.58 現実感喪失の時代



 つい10年ほど前のことを考えても、パソコンとインターネットがここまで急速に発展、普及するとは、誰が予想しただろうか。

 私は、仕事上の必要性から、その倍くらいの年数、コンピュータを触ってきたわけだが、未だにというか、触れば触るほど、 つくづくリアリティの感じられない機械だなあと思う。

 例えばテープレコーダーならば、今自分の行っている操作と、機械の動作との直接的関連性が、リアルにわかる。 ボタンを押せばモーターが回転し、磁気テープがヘッドに接触し、データが記録される。回転が乱れれば、記録される音声も乱れる。

 ところがコンピュータの場合、自分の行っている操作と、目の前で起こっている現象との直接的関連性が、 普通の使い手には実感としてわからない。これを体感できるのは、おそらくプログラムの開発者くらいのものだろう。

 機械は決まったルールで操作したとき、その指令通りに動いてくれれば、その間のメカニズムなどがわからなくとも、 それで用をなす。パソコンを使う上では、そんな小難しいことを考える必要はもちろんない。 人間の操作と機械の動きとの間のメカニズムを知りたいなどと言っていたら、それこそ携帯電話だって使えなくなってしまう。 ただ、私はそういう欲望が強いということだ。

 20代の頃、私はシンセサイザーや電子ピアノ、デジタルドラムなど、いわゆる電子楽器を買い集め、 シーケンサーという機械に打ち込みをして、曲を作ることに没頭していた時期がある。 日常の中で、ふとメロディが思いついたら(これを、よく「神が降りてくる」と表現する)ラフな譜面を起こし、 コード進行を決めた段階で、早速作業に入る。ベースとドラムス(リズム体という)を打ち込み、コードに合わせて 管楽器や弦楽器などの音を積み重ねてゆく。バンドであればパートごとの譜面に従って、 一斉に音を出して確認してゆくのだが、すべてを一人で行う場合、 自分のイマジネーションだけで、ひとつひとつ音を積み重ねてゆく。そのプロセス自体が既にして快感であるし、 心に描いたイメージがうまく音に表現できた時の喜びは、何物にも代え難い。

 こういった作業は、今自分が行っている機械操作と、出てくる音との関連性が実感としてわかるので、 私のような人間にはとても楽しい作業であった(*1)。この手の欲望は、人によっては「映画を作りたい」 という形になったり、「料理を作りたい」、「絵を描きたい」という形になったりする。 私の場合は、表現手段が音楽であっただけのことだ。今思うと、 何かを表現したい、作りたいという欲求が私には常にあり、しかもそれらのすべてを自分の手でやらないと気が済まない性分なのである。 だから仕事の上でも、雑用ですら基本的に人に任せる気にはならず、全部自分でやってしまう。

 時は下り、パソコンの時代となったとき、既に音楽をやめてしまった私は、 それに代わる「快楽」として、WEB作成をしてみようと思った。 音楽をするためにある程度の楽器の演奏や、楽譜が書けることが必要だったりするように、 WEB作成には、HTMLを学ぶ必要があると思われた。もちろん専用ソフトを使いさえすれば、 HTMLを知らなくともWEB作成はできる。しかし、操作と結果の間にあるメカニズムを知らないと気が済まない私としては、 パソコンに話しかける言語としてのHTMLを知らずして、 WEB作成をするなど、とても納得できるものではない。

 当サイトの構築を始めた1999年以来、私は基本的にWEB作成ソフトというものを使っていない。 すべてテキストエディタにHTMLタグを直打ちすることで、WEB作成をしている。 もちろん最初に、各ページの画面イメージのラフなデッサンを起こし、それを見ながら打ち込んでゆく。 思いが形になってゆく様は、若かりし頃、音楽を作っていた快感に通ずるものがある。 単なる文字の羅列が1つの画面を作っているのだが、自分の指令がパソコンに伝わり、ブラウザに結果となって表示されている というリアリティが感じられるのだ(*2)。

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 さて、話題は変わるが、リアリティという点で、最近非常に気になることがある。

 メカニズムなどわからなくとも、操作さえできればいいのだ、というような風潮が嵩じると、 自分の行動と結果との関連性に対する意識が希薄になりはしないか、ということである。 結果に対する責任感も薄れてしまいはしないか、ということである。

 もちろん、たかがパソコンや機械の話を、大きく広げすぎなのは承知している。 しかし、世の中を見ていると、現実世界に対する想像力が欠如しているとしか思えない言動が、近年子供にも大人にも多々見られる。 「ゲームが少年犯罪を誘発している」などという短絡的な意見に与するつもりは毛頭ないが、 ビジネスの世界などで、自分の行ったことがもたらす結果に対する意識が希薄に過ぎるのではないか?と感じる事件も散見される。

 雑誌などで面白おかしく指摘されるまでもなく、建築士や公認会計士の不祥事について、 我々不動産鑑定士も、対岸の火事ではなく、他山の石としなければならない。

 リアリティの感じられない所で、良い仕事はできない。自分のやっていることが、 世の中に対してどのような効果をもたらしているかということを、常に実感しながら仕事をしたいと、 私は考えている。言い換えれば、現場感覚、あるいは実践感覚の大切さである(*3)。

 鑑定評価という仕事は、それによって多額のお金が動き、他人の懐を大きく左右する仕事である。 評価という作業だけを見れば、数字の組み立てに過ぎないが、そのひとつひとつの数字の選び方が、 社会に大きなインパクトを与える。そういう自覚を、常に失ってはならないと思う(*4)。

 現実感の喪失、あるいはリアリティの欠如が致命傷になることを、プロを自任する人間ほど、 肝に銘じなければいけない。


※この「私の主張」コーナーでは、ジャンルに応じて背景色を変えているが、当コラムを不動産鑑定関連 ジャンルを示すパステルグリーン色とした意図は、最後まで読んでいただければお分かりであろう。

2006年7月30日


*1:今ではデスクトップ・ミュージックなどと称し、パソコンソフト上で簡単に作曲ができるようになった。 ただ、私はそのようなソフトを使ってPC上で音楽をやろうとは思わない。もしやるとしても、実際にキーボードを叩くという動作だけは、 自分の手でしたい。どこまでも職人でありたい、アーティストでありたいというのが、 私のこだわりであり、夢なのだ。

*2:最近はブログが大流行だが、私はブログを開設するつもりはない。ページごとのデザインの自由度や、 自分の内的イメージをHTMLタグという無機質な文字の羅列で表現してゆくことの快感こそが、 サイト運営上の大きな喜びであるから、お仕着せのデザイン(アクセシビリティの構築も含む)では決して満足できない と思われるからだ。
 このkanteishi.netは、かなり古い時代の無骨なレイアウトだが、 サイトの性質上、これはこれで仕方ない。 その分、私はプライベートサイトのほうで、思い切り遊んでいる。

*3:現場が大切というと、すぐ、「不動産の売買も経験しないで鑑定はできない」などと声高に叫ぶ人があるが、 それは非常にトンチンカンな発想である。むしろ、そのような経験至上主義は、セミプロのものであろう。例えば本物のプロの作家は、 決してそんな経験がないのにもかかわらず、殺人者の心理描写が上手なはずだ。自分の役割に応じたイマジネーションこそが、 大事なのである。

*4:例えば収益還元法(直接還元法)でキャップレートを5%から4%に変えると、 たった1%の違いで価格は25%も上昇する。10億円なら2億5千万円だ。 キャップレートを3%にすると、10億円は16億6千万円以上となる。 その6億数千万の重み、現実感を、決して忘れてはならない。
 低金利下での不動産市況好転で、取引利回りが低下しているのが事実だとしても、長期的視点からの検討は絶対に必要である。 過去の長期金利水準からみて、また不動産のもつリスクからみて、 取引利回りが5%を下回った地域は非常に危険であると、私は数年前から考えてきた。 現状肯定をするだけならば、鑑定士に存在意義はない。現状追認してくれない鑑定士は不要だという声がもしあるならば、 私は、誇りを持ってそんな脅しには屈しない。収益還元法が巧妙な価格のつり上げ手段として使われることは、 絶対に許してはならない(この点に関しては、 「思想としての収益還元法と現象論としての収益還元法」 を参照)。
 上場REITが立ち上がってしばらくした頃、「不動産の無リスク金利とのスプレッドはだいたい4%くらいだとわかった」 と鼻息荒く分析して見せた自称アナリストの方々がいたが、彼らのうち、いったい何人が、 昨今の東京都心部のキャップレート低下に警鐘を鳴らしているだろうか。 我々不動産鑑定士は、現状追認に余念のない御用アナリスト みたいな商売人になってはいけないのである。金利は変動する。賃料も変動する。 ビル稼働率も変動する。未来永劫人気の衰えない地域なんてありえない。 バラ色の未来だけを描いてみせる自称分析家は、今自分が儲かるからそうしているに過ぎないように、私には見える。 答えは10年後に、必ず出る。