No.66 破綻会社と株主責任 〜真の自己責任とは何か〜
会社更生法申請に伴い、株主にも責任を求めるとして、株券が紙くずと化してしまった日本航空。
当然、投資家たちには大きな衝撃であった。
最近、新聞の投書欄等を見ていても、株主たちの嘆きの文章をよく目にする。
「老後のためにと思って、少ない資金の中からこつこつと投資をしてきたのに、
株の知識も乏しい個人投資家にまで責任を求めるなんて・・。私が何か悪いことをしましたか?」
などといった、悲痛な叫び。
だが、ここで立ち止まって考えていただきたい。
株を買うということは、企業の将来性、成長力などを信じ、
資金を拠出することによって、その企業活動を支えることである。
だがその企業の経営実態が、早晩公的資金を注入しないと立ちゆかなくなるような状況であるのに、
投資家が株を保有、売買することで支えていたとすると、
それによって事態をより深刻にさせ、より多くの国民の税金を投入しなくてはならなくなる
(*1)。
とすれば、株を買って支えていた人たちは、
国民全体に迷惑をかけたことになるのだ。
「破綻するかどうかなんて、素人株主にはわからない。」
そういう言い訳は通用しない。投資とは、そんなリスクをすべて背負わなければならないものなのだ。
もちろん、その背後には、経営が傾けばどうせ最後は国が支えてくれるだろうという安心感が
あったはずであり、株主だけの責任でないのは明らかであるが。
市場主義的な考え方を尊重する人たちが、すぐ口にしたがる「自己責任の原則」は、
こういうときにこそ貫徹されなければならない。
儲かったときだけ利益を享受し、損をしたら人のせいにするなどは許されないのである。
「私が何か悪いことをしましたか?」に対する答えは、
「残念ながら悪いことをしたのです」と言うほかはない。
これまで私は、しばしば市場至上主義を批判してきたが、
私はべつに競争を否定する人間ではない。むしろ完全な競争を望み、
競争を貫徹すべきと考える一人である。
ではなぜ、市場至上主義を批判するのかといえば、
自由競争とか自己責任などを強調したがる人々の大半は、
本音では公平な競争など、ちっとも望んでいないくせに、競争、競争と口走るからである。
十分な学歴が得られなかった。満足の行く企業に就職できなかった。それはすべて競争の結果なのだから、
その責任はすべて負わなければならない・・。そういった発言が典型的なのだが、
今の日本社会では、公正な競争の結果として色んな格差が生じているのではなく、
生まれ育った環境により、十分な教育が受けられなかったりするわけで、
スタートラインがまったく違うのだから、それは本来「競争」などとはとても呼べないものなのだ。
政治の世界で「構造改革」が叫ばれて以来、この国で推進されている「競争」とは、
既に権力や資金力をもつ側が、自分たちに都合のいいようなルールを作り、
絶対に逆転できないような状況を作ったうえで、
「さあ自由競争だ」と言っているに過ぎない(*2)。
もし、自由競争、自己責任を徹底するのであれば、
相続税率を100%にすべきである。つまり、親の財産は一切子どもには承継させないで、
皆、ゼロからのスタートとする。
それから、学費はすべて無償として、税金すなわち国民全員の負担でまかなう。国民全員に、
平等な教育機会を与える。
そういった下地が整えば、本当の競争ができる(*3)。
そして、自由競争をさせるもう一つの大前提として、敗北した人間に対して再チャレンジの機会を与える
フォロー体制(セーフティーネット)を完備しなければならない。
私のこの提案に賛同できないような人は、自由競争とか自己責任などという言葉を発する資格は、ないと思う。
誰しも生まれてくる場所は選べない。生まれた境遇や性別などによって、
何らかの不利益を被らなければならないとしたら、そんなところに公正な競争は成立しない。
全員が同じスタートラインに立てる社会であるならば、私は自由競争、自己責任の原則に大賛成である。
株式の話に戻すと、企業の株を買うか買わないかは、
自分の金を使って自由意思で決定することだから、全員が同じ条件にある。
だから、公平な競争なのであり、従って、それによって生じた結果は、
当然引き受けなければいけない。
株主責任とは、そういうものなのである。
私は、共に支え合う社会が理想と考えているので、国民にとって日本航空という会社が必要であるなら、
税金を注入して支えることは、当然のことだと思う。いや、本当に必要な会社なら、そもそも
民営化などしなければよかったのだ。
郵政の問題で、例の竹中平蔵氏は、「民営化を逆戻りさせたら、きっと国民負担は増える。
その時に私の主張が正しかったことがわかる」などと発言しているが、
郵政の中でも特に郵便事業は、たとえ赤字であっても全国津々浦々までのサービスを維持すべきであるし、
そのために国民負担が増えるとしても、それは皆で支えるべきものだと私は思う。
田舎はカットされてもしかたないというのは、都会の人間の横暴である。
私は自らの意思で都会に住んでいる人間だが、そのためにコストがかかるのは仕方ないと思っている。
過疎地で必要とされるそうしたコストも、都会の人間が負担すべきなので、
喜んで支払いたいと考えている。
もしそれがイヤなら、都会になど住まなければいいのである。
だから、財政投融資など、不透明な資金の流れの問題と、郵便事業の公益性とは、
きっちり分けて議論すべきだったのである。
郵便事業のみ国営として、赤字分は国民全員で負担し合う形が良いと思っている。
つまりこれは、自分の暮らすこの国をどういう社会にしたいかという問題なのである。
田舎が切り捨てられるのは田舎の自己責任などとする暴力は、断じて許してはならない。
田舎に暮らすのも自己責任ではないか、と言われるかもしれないが、
過疎地に生まれたくて生まれた人はいない。そして、そこから出たくとも出られない境遇の人はたくさんいる。
一方、経済活動として、自分の自由意思で投資をした人たちこそは、
それによって生ずる結果には、自己でその責任を負わなければならないのである。
(*1)日航OBが受け取る企業年金に対し、一斉に「カットしろ、カットしろ」
という世論がわき上がったのも、実に気持ちの悪い現象である。「普通の会社なら、
経営が傾けばそれは当たり前のことだ」とする意見も多かった。しかし、日航とは、
そもそも普通の会社だったのだろうか。
これまで国の政策(各地域のエゴイスティックな要望に基づく)で、
必要性の乏しい空港がいくつも作られ、就航を余儀なくされる立場。
いわば政治に翻弄された会社という側面もあるわけで、
単に職員の待遇が良すぎるなどといった"やっかみ"によって
同社を批判するのは、あまりにも浅はかである。
(*2)私は、あらゆる分野で近年展開されている価格競争(安売り合戦)には、一貫して反対の立場をとってきた。
もちろん、無駄なコストを省き、それを消費者に還元するための価格ダウンならば良いが、
最近各方面で行われていることは、まさに身を削る消耗戦に過ぎない。目先の安さにだまされているうちに、
結果的に全員が不幸になることは目に見えている。
私もしがない経営者の一人だが、価格競争には一切関わらない方針を貫いている。
入札のようなものには基本的に参加しないし、成り行き上、参加せざるを得ない場合でも、
十二分に利益の出る価格しか提示しない。
あえてそうすることによって、価格競争などは愚かな行為であると主張したいからである。
べつにそれで収入を増やしたいのではない。むしろそうすることによって、
収入は確実に減る。でもそれこそが、私の信念の発露なのだ。
競争の方法が、例えば高い技術力を競う開発コンペとか、独創性を競う設計コンペやデザインコンペ
のようなものであれば、誰にとっても公平な競争である。
しかし、短期間に大量の仕事をできるだけ安くこなせることが条件となるような入札システムというのは、
既に資本力とマンパワーのある大手に有利なように仕組まれたものであり、
弱者を排除する仕掛けとしか思えない。
「それが時代の流れ」だと、訳知り顔の向きも少なくないが、
そういったものに対しては、私は、断固NOと言い続けたい。
数や金の論理ではなく、本当の実力で評価される公正な競争社会へと転換しなければ、
この国の未来はない。
(*3)よく、「税金が高いと勤労意欲が削がれる」とか、「給料が安いと優秀な人材が集まらない」
などといったお決まりのフレーズを耳にするが、手取が少なかったら働きたくないなどという人間は、
優秀でもなんでもないと私は思う。金で勤労意欲が左右されるなどは、
アマチュアではないか。給料が安いからその仕事はイヤだという御仁には、
どんどん辞めて頂いたらいいのである。
2010年2月4日