No.67 そんなに、つぶやきたいですか?
最近、巷では Twitter なるものが流行っているらしい。
言ってみれば個人的な「つぶやき」を全世界に公開し、
誰かからの反応を待つものだと思うのだが、
どうしてそんなものが流行っているのか、私には理解できない。
そもそも私は、ブログすら拒否し続けている。
「なぜブログをやらないのですか? ブログにしてくれたら、コメントを書き込めるのに」
といったご意見を頂くこともあるのだが、
私はどうも、その時々の感情にまかせて書き散らかすということが、許し難いのだ。
当サイトをご覧頂いてもおわかりのとおり、私は日頃、
「論文」を書くことが多い。論文というものは、
テーマを決め、調べることを調べ、文章構成を考え、何度も推敲して、完成するものだ。
世間に公表する文章というものは、そうやって練りに練って作られるべきものである。
論文に限らず、このようなコラムについても、私は、一度書いた文章を後から何度でも読み返し、
誤字脱字や、おかしな表現をみつけたら、その都度修正するようにしている。
文章とは、そうやって魂をこめるべきものであり、
ことばとは、それほど重たいものなのである。
だから、感情の応酬のようになってしまいがちなブログのコメントなどは、
世間に公開すべきものとは到底思えない。意見表明というのは、
自分の中でよく反芻してから、言葉にするべきもので、
思ったことを瞬時に言い散らかす行為というのは、公害(口害)以外の何者でもない。
もし反対意見があるのなら、同じように考え抜いた末に、
責任ある文章にして、反論して欲しいのだ。
だからTwitter で、思いついたことをすぐつぶやくなんて、そんな無責任なこと、
とてもではないがする気にはなれない。だいいち、忙しくて仕方ないではないか。
芸能人だけでなく、最近は政治家まで(首相までも!)つぶやきを世界に公開している(*1)。
どこにそんな時間があるのか、不思議である。
学生が授業中に携帯を打つのと同じように、そのうち、会議中に実況中継をする
ビジネスマンが出てくるかと思うと、ゾッとする。
皆が Twitter に狂奔する姿は、
いつメールが来るか心配で仕方ないから、風呂場にまで携帯を持ち込む女子高生とそっくりだ(*2)。
まあ、そんな病的な依存症も、大人になったら自然にやむだろうが。
Twitter を毎日欠かさず5年継続しました!なんて人は、たぶん現れないと思う。
そのうち自然に廃るだろう。
(私は当サイトとは別のサイトを、もう5年半以上、毎日無欠勤で更新し続けている。
他人の感情的な意見を受け、それに一々反応するといったことをしていないから、続けられることである)
「このつまらないコラムだって、単なるお前のつぶやきではないか」と言われるかもしれない。
まあ、そうかもしれない。というか、アイロニーとして、つぶやくように書いているわけでもあるが。
ただ言えることは、この文章とて、一時の感情の発露ではなく、
何度も読み返して、修正して仕上げているものなのだ。
(*1)そもそもツイッターがここまで急速に流行ったのは、 有名人がつぶやくからであり、その有名人に一般人がリアルタイムでコミット(フォロー)できるからに違いない。 どこの誰だかわからない一般人がつぶやいたって、そんなもの誰も聞きたくないだろう。 例えば私が、「只今焼肉中。カルビ最高!」なんてツイートしても 、なーんにも面白くないし、だから何か?って感じだろう。
鳩山首相がツイッターをやっていることに対して、自民党の加藤紘一代議士が、 「総理はツイッターなどやるべきじゃありません」と言っていた。 「政治家は、一つ一つの発言に重い責任があることを自覚すべき」とピシャリ。 まったくもって同感である。
(*2)だいたい執務中とか会議中、打合せ中に携帯やノートPCをカタカタやるなんて、 社会人としてどうなのか。国会議員が委員会とかの最中にツイートしている映像を中高生が見たら、 「同じように授業中に携帯さわって何が悪いのか?」と思うに決まっている。 休憩時間中にブログを書くのとは、根本的に意味あいが違う。
もちろん、「そんな古い価値観など、すぐに変わる。貴方は固定観念に縛られているのだ」 といった反論があることは重々承知である。私も別にモラル云々などと、つまらないことを言うつもりはない。 のべつまくなしTweetが常識というのなら、学校への携帯の持ち込みもOKとすべきである。 子どもにだけは認めないなんてのは、それこそ不道徳だろう。
2010年2月8日