No.68 つぶやき合うのが、ネット上の人間関係か

- 拝啓 中川淳一郎様 私は貴方の主張に全面的に賛同いたします -



 WEBサイトの運営を始めて、10年以上が過ぎた。

 当サイトのほか、私は現在では複数のサイトを開設しているが、それらを通じて、良き出会いがたくさんあった。

 サイトを通じ、私に会いたいと言ってくださった方が何人もいた。実際、それらの方々は、現在、私にとって 大切な友人となっている。年上の方も含めて。

 ネットは確かに、多くのものを与えてくれた。

 その一方で、「所詮ネット上のつきあいなど、こんなもの」という諦念を禁じ得ない出来事も、多々あった。

 当サイトでは、身分と実名を明かして文章を書いていることもあり、あまり非常識なメールをもらうことはないが、 他の運営サイトでは、腹立たしいこともしばしばある。

 例えば、何か質問や意見を送りつけるだけ送りつけてきて、こちらからそれに返答をしても、 その後全く音沙汰なしといったことは、日常茶飯事である。 先方から相互リンクを申し込んできたのに、何の連絡もなく一方的にリンクを解除されたり、あるいはいつの間にか 先方サイトが閉鎖されていたといったことも多い。

 ネット上ではそれも当たり前のことと、今では考えるに至っている。

 ところがつい先日、某サイト(大手企業運営)を管理する方から、近々同サイトを閉鎖することになったので、 「せっかくこちらから相互リンクをお願いしたのに申し訳ありませんが、リンクを解消していただきたい」 というメールをいただいた。

 これまでサイトを運営してきて、そんなことは初めてだったので、感激するとともに、 あらためてネット上の人間関係について、考えた。

 私はブログは持っておらず、それどころか、これまで自サイト上に「掲示板」のようなものを設置したこともなく、 SNSなどにも参加せず、twitterなど始める気もない。 それは、思いつきでものを言い合うような場からは、真の人間関係は生まれないし、 感情の応酬となれば、お互い時間を無駄にするだけだと、固く信じているからである。

 「誰もが自由に意見を述べる場ができるのは、すばらしい」と、特にブログというツールが出現したときは言われた。 しかし、批判を恐れずに言えば、駄文の垂れ流しは害悪でしかない(当コラムも駄文であるという批判は、甘んじて受けるつもりである)。

 ネットで数々の恩恵を受けてきたくせに、その言いぐさは何だと、お叱りを受けることを承知で続ければ、 何らのフィルターも経ずに発せられた個人の文章など、ひどいものが大多数である(もちろん、中にはすばらしいものもあるが)。 随分ご立派なことをおっしゃると、皮肉られるかもしれないが、自戒の念も込めて書いているのである。

 ちゃんとした学術論文には「査読」というフィルターがあるが、それは、専門的知識を持った第三者が、 論文の妥当性を外から検討するしくみであり、そのプロセスを経ないもの(当サイト上の多くの文章がその例)など、 所詮は個人のパフォーマンスに過ぎない。

 PV(ページビュー)を上げるのは簡単なことで、 いわゆる食いつきのいい文章を書けばよい。そうして発言権が大きくなれば、 あたかもそれが正しい意見であるかのように扱われることとなる。


 ネットニュース編集者の中川淳一郎氏は、その著書の中で、次のように述べている。

 ネットはただのツールでしかない。ネット関連書籍のタイトルをみると「革命」「衝撃」「進化」 「・・・を変える」「次世代」だのと書かれているが、大したことはない。しょせんは人間が使うものである。 人間は全員が優秀なワケではない。「優秀な人が使うことを前提に書き記した、優秀な人による前向きなウェブ論」 −これがまかり通っていたが故にネットに対してはポジティブな論調がこの15年間、日本を覆っていた。
(中川淳一郎『ウェブを炎上させるイタい人たち −面妖なネット原理主義者の「いなし方」』 宝島社新書/2010年2月,20頁)

 あと、情報発信について私が言いたいことは、「ネットのことがよく分かっていない人々に安易に自己表現を勧めて、 それが元で彼らが苦しむ結果になることを考えているの?ネットのコミュニケーションなんて、 ロクでもないものが現実社会以上にあるんだぜ!」である。(同書,31頁)

 ネットのあり方に懸念を表明した氏の3部作(*1)は、 どれも非常に的確で、痛快な内容だが、当のネット上ではこれらの書籍と、そこで展開されている氏の意見は、 ほぼ黙殺された(あるいは、口汚く罵られた)という。だから私はここで、読むべき本として紹介し、中川氏を強く応援したいと思う。 中川さん、私は貴方を尊敬していますよ。これからも発言し続けてください。


 人間は、すべての人と分かり合えるわけではない。だから、"戦争"を引きおこさないための叡智は、 近づかず、否定せず、異質な者の存在を遠くで許すことである。

 ネットは有益な人間関係をもたらしてくれることも確かだが、その一方で、本来出会わなくても良かった人と人を、 不用意に結びつける機能をも持つ(*2)。 だからもし、ネットを通じて人と良き交流を持ちたいのなら、 誠実に手紙(メール)をしたためるべきなのである。 そのようにして、私には、かけがえのない人脈が与えられてきた。

 もちろん、ツールそれ自体が悪いのではない。

 包丁は人も殺せるが、それがなければ、多彩な食文化は生まれなかった。 ただ、鋭い刃物を扱うには、それなりの技量と節度が要る。

 中川氏曰く、ネットについて語られるとき、いまだにネットのすばらしさ、可能性ばかりが強調されるが、 それは人々にネットの良さが実はわかりにくいからで、例えばデジカメのすばらしさを今さら論じたりしないように、 本当に便利でよいものなら、声高にその可能性が語られたりはしないはずだという。まったくそのとおりである。

 「twitterはすごいぞ。WEB2.0はすごいぞ。これからはクラウドコンピューティングが必須だ。」などと言い合って満足し、 それを知らないやつは遅れていると言っては、自分が「最先端」であることを確認したいだけなのだ。

 あえて言うが、twitterなど、ネット上の井戸端会議的使い方ならば、そこからは何も創造的なものは生まれない。 「どうだ、オレはこんなに最先端のツールを使いこなしているぞ」という、自慢のためのものに過ぎないし、 通勤電車でi-phoneを自慢げにいじるのと、同様の行為であろう。

 実際twitterをやっている人が、どれだけ有意義なものを生み出しているのか、胸に手を当てて考えてみれば、 わかるであろう。何かを生み出せている人は、既に多彩な人脈をお持ちで、たぐいまれな才能をお持ちの人だけではないか。

 "ネット教信者"たちの言う「セルフ・ブランディング」などは、既にリアル世界でブランド確立している人だからこそ、 ネット上でもできるのであって、一般人にもできるなどというのは、幻想に過ぎない。 貴女が勝間和代や広瀬香美になれるわけではないし、私が梅田望夫やホリエモンになれるわけでもない。 もともとすごい人がtwitterなどのツールを使うからすごいのであって、凡人はどこまで行っても凡人に過ぎないのだ。 そんな単純なこともわからず、私にもネットで新たな可能性が拓けるかもしれない、などと期待する姿は、 幼稚というほかはない。

 「思いついたことをどんどんtwitterに書き込んでゆけば、思考の整理になる」なんてことをおっしゃる御仁もいるが、 そんなものは自分の頭の中、あるいはこっそりとノートを広げてやるべきものである。プロセスを他人に公開するんじゃない、 と言いたい。「twitter上での議論から有益なものが生まれる」という意見もあるが、 単なる思いつきの言い合いは、時間の無駄である。

 私は、何か意見を述べるときは、じっくりと言葉を吟味した上で、「私は・・・思う」と書く (*3)。 責任の所在を明らかにしたいのと、単なる思いつきではないという表明でもある。 責任をとるつもりのない発言者には、相手からの返答を求める権利などない、と思う。

 正々堂々と、できれば顔をつき合わせて議論したとき、真に有益な結論と、得がたい友情が得られる。 私が、当サイトも含めて、ネット上の一方的な発言自体には、あまり重きを置いていないゆえんである。

 私の発言力は大きいなどと、持ち上げてくれる方もいるが、しょせん、私は地方のフリーランスに過ぎない。 たとえ業界で、今より知られるようになったとしても、たかだか数千人の世界での話である。 失うものが少ないから、こんなふうに自由に発言できるのだ。

 けれど、自分の発言にはいつも責任を持ちたいから、妙ななれ合いの世界や、無意味な罵倒し合いの世界には、 関わりたくない。


 ***************

 最後に、ひと言。

 道具は道具。それ以上でも以下でもない。道具が世界を切り開いてくれるわけではない。 あなたが切り開くのだ。

2010年5月12日


*1)1.中川淳一郎『ウェブはバカと暇人のもの −現場からのネット敗北宣言』(光文社新書/2009年4月)
 2.中川淳一郎『今ウェブは退化中ですが、何か? −クリック無間地獄に落ちた人々』(講談社BIZ/2009年12月)
 3.中川淳一郎『ウェブを炎上させるイタい人たち −面妖なネット原理主義者の「いなし方」』(宝島社新書/2010年2月)

*2)上記(*1)の2『今ウェブは退化中ですが、何か?』に、次のような記述がある。

 結局人間なんて、簡単に分かり合えるものではないのだ。 それなのにインターネットは、簡単に分かり合えるわけもない人々を、同じ場所に集結させる。 そんな場所で、良好なコミュニケーションが生まれるはずがない。 分かり合えない者同士が発言すれば、罵倒、嘲笑、批判だらけになるのは当たり前だ。(同書,P.43)

*3)当コラムも、書こうと思い立ち、ノートに色々と書き殴り、 文章を練り、書いたものを推敲し、ここにアップするまで、約1ヶ月ほどかかってしまった。 もちろん、仕事の合間を見ての作業だから進まないというのもあるが、 一時の感情をぶつけるだけの文章にはしたくないという思いが強いからである。