No.70 改革というの名の暴力について
改革の語に少しでも異を唱えると、すぐさま守旧派というレッテルを貼られる 風潮が怖い。
この国の人々が"ムード"に流されやすいのは、今に始まったことではないが、 政治の世界にも、経済の世界にも、すべて改革=善という単純な図式ができてしまっていることに、 非常に危険なものを感じる。
これまでの制度が疲弊し、経済が弱体化して、同じことをやっていては先が見えないという 現状認識は正しいが、すべてを一旦ご破算にして作り替えれば、バラ色の未来がやって来るかのような 単純な発想には、大きな落とし穴が待っているということを知るべきである。
改革を断行するため強力なリーダーシップが必要というのが、「常識的」な見解だとされているようだが、 一人のリーダーに委ねることほど、危ういことはない。政治にしても、企業経営にしても、 一人の意思だけで組織が長くうまくゆくことはない。 一時的に「壊す」ことだけを一人のリーダーにやってもらえばよいという発想だとすると、 その壊した後に責任を持てる人が誰も存在しないことになる。
将来に希望の持てない若者が手っ取り早く見つけ出す攻撃相手が、既得権益である。 もちろん、昔から続いているからと言うだけの理由で利益が守られることは批判されてしかるべきだが、 既得権益をつぶすためならすべてを一度ゼロにすればいいといった過激な意見も、ネット上では共感を得ているようだ。 曰く、「いっそのこと戦争にでもなれば、皆が全部を失うから、我々にもチャンスが出てくる」などと。
注意すべきは、そんな風潮を利用して登場する「改革者」である。
今世紀に入って、いわゆる新自由主義的発想で、すべてを市場競争に委ね、 効率化を図ろうという改革断行派が市民権を得てきたが、その陰で犠牲になる人たちは見捨てられ続けている。 普通だと、こういう風潮は民意をバラバラにするのだが、犠牲者の側に回るしかないような人々こそが改革を支持しているのは、 ナショナリズムがうまく利用されているからだ。
乱暴なぶち壊しが断行されたとき、利益を得るのは、結局既に強大なバックボーンを持っている一部の人たちだけである。
改革という名の暴力に淡い夢を託すのではなく、現状の何がダメで何を守るべきなのか(*)、 一人一人が主役になって考える時が来ている。 制度やルールやリーダーを変えたら、それですべてがうまくゆくなんてことはない。 「改革者」が我々を救ってくれるなどという、 幼稚な期待は、危険な世の中を招来するだけだ。
改革断行のスローガンの裏には、巧みに隠された私利があることに、気づくべきなのだ。
*:守るべきものを伝統・文化などといった抽象概念にすり替えてはならない。 制度を論じている時に精神論は無益である。"三丁目の夕日"的ノスタルジーは何も生み出さない。 そのような概念的な癒し、復古趣味が流布されている間にぶち壊しが進行し、制度は強者に都合の良いように 作り替えられ、大多数の人間には荒野(あらの)だけが残される。 今はそんな道の途上にあるような気がしてならない。
なお、当コラムも抽象的で、一体何に対して異議を唱えているのかわからないといった意見もあろう。 だが、それこそが狙いである。読者それぞれが想像してみて欲しい。
2012年3月1日